俺は今、これ以上ないというくらいに困っている。
「だから、ほんと続けるつもりは全くないんですって」
「いやー頼むよめぐるくん。お小遣い増やすし、週に一軒だけでもいいからさ」
「そんなこと言われても、俺まだ進路も決めてないんですよ」
揉めている相手は、雇用主である円さん。この人の経営している不動産屋でとあるバイトをしているんだけど、これまた普通ではない内容で、俺のような能力を持つ人間にしかできない。
なんでもこの辺りは事故物件の激戦区らしく、それ目当ての物好きな人間も多いようで、ものすごい頻度で相談を持ちかけて来られては毎度同じ説明をし、繰り返しているうちに嫌気がさしてきたという。
そこで思いついたのは、そんな物件さえなくなればこの街に興味はなくなるだろうという安直だが理にかなった考え。
ちょうどこの夏休みを使って短期バイトでも入れようと思っていた俺のもとに親つてで舞い込んできた話がこれ。
対象となる場所や人物についているいわくに繋がる「みち」をつくる俺の能力。仕事内容は事故物件となる部屋を能力を使って見に行くだけの簡単な仕事。今までマジで使いどころがなかったこんな力が、ようやく活用できる時が来たということで、今まで結構稼がせてもらった。
でもこの長期休暇も、まもなく終わってしまう。明けた後まで続けるつもりは当然なかったから、そのことを話したらこんな調子で引き留められてしまった。
「ほら、こういうのってやっぱ霊媒師とか、そっち系の専門家でも雇ってみたらどうなんですか」
「信用問題が関わってくるさ。そんな胡散臭い自称職人たちなんかより、ある程度検証されてる君のような能力者の方がずっと確かで頼れるもんだ」
んまぁ、確かに。おまけに相場がわからないから、専属で霊媒師とか雇ったら相当ぼったくられそう。ってなに納得してんだ俺。
「せめて代わりの人が見つかるまででいいからさ」
なんて言っても、今や日本では四人に一人が特異能力や体質を持っているなんて言われているけど、この仕事内容に適した能力者がすぐに見つかるとは思えないんだよな。
いやぁ、ほんとに困ったもんだ。
「あのー、めぐるくん」
「はい?」
「考えてるとこ悪いんだけど、これから予約入ってるからさ」
「あ、はい」
やべ、ちょっとぼーっとしてただけなのにこれじゃまるで脈ありだと思われちゃうじゃんか。
「一応言っておきますけど、マジで続ける気ないですからね」
それだけ言い残し、さっさとその場を後にする。
自動ドアをくぐると、恋愛がスマホをいじりながら出迎えた。ひとつ歳下である従姉妹の一色恋愛だ。紺色の短髪は肩まで及ばない程度に揃えられていて、毛先まで清潔に整っている。長さが左右非対称の前髪は左眼側が根元からかきあげられているのに対し、右眼側はその小顔の半分以上もかぶさるほど伸びている。これだけかわいいのに昔から友達ができないのは、なんとなく近寄りづらい雰囲気を出しているのが原因のひとつだと俺は思う。
「ずいぶん長かったね。もしかして今日は十軒くらい回るとか?」
「いや。今日は帰んぞ」
「てことは、また揉めてたんだね」
こいつは俺の仕事を普段手伝っているため、ある程度の事情は把握している。日陰とはいえ真夏の暑さに見舞われるなか外で待機するのも、俺と円さんの間に生まれる空気を嫌がったためだ。
そのうち慣れてきたのか用意は周到になり、今日なんかはスポドリのペットボトルを二本も持ってきている。うち一本は空になっているのを見るに、やはりだいぶ長い時間俺はエアコンで涼んでいたのかと思うと、少し申し訳なくなる。
都会に馴染みきれない中途半端な街に伸びる歩道を、歩き始めて一分と経たないうちに、俺は隣の恋愛を横目で見下ろしながら切りだした。
「帰り、コンビニ寄ってこうぜ。アイス奢ってやるよ」
「お。やった! はやくいこいこ」
恋愛は心底嬉しそうに、踊るように帰り道を先行する。
ところで、今日の恋愛は、なんとなくおかしい。いつもならこんなにわかりやすく、感情を出すようなやつじゃないのに。
「なあ恋愛、なにかいいことでもあったか?」
狭い背中にそう投げかける。さっと振り返った彼女は笑っていた。そう、その笑顔こそが違和感だった。
こいつはあの事件以来、少なくとも俺の前では、笑ってみせたことなどなかったのに。
「聞きたい?」
「……」
ただ無言で肯定する。聞く必要などなかったかもしれない。こいつがまた笑えるようになったのなら、それでいい。なのになぜか、聞かなければならない気がした。
それと同時に、拳を固く握りこんでいた。多分、俺は心のどこかでその訳がわかっていたのかもしれない。
そして答えは、斜陽を背に恍惚とした笑みを浮かべた恋愛によって、簡潔に述べられた。
「天罰。みやこが死んだよ」
卍 卍 卍
従姉妹の恋愛が今、この小野路家で共に住んでいるのには理由がある。
九年前。当時恋愛は小学二年生だった。
都内夫婦殺人事件。何者かに侵入され、一色家は被害に遭った。
深夜に犯行はおこなわれたらしく、彼女が朝目を覚ました頃には既に両親は亡くなっていたらしい。
なぜか娘の恋愛は手にかけることはなく、また金品目当てによるものではなかったために、一色夫婦と関係を持ち動機があると思われる人間を犯人像として捜査が開始されたが、間もなく犯人が出頭することであっさりと幕を閉じた。
夫婦を殺害したのは、小野路みやこ。俺の叔父であり、事件以前までは家に居候していたろくでなしだ。
ただこんなろくでなしでも俺はみやこ叔父さんが好きだったし、殺人を犯したなんてまるで信じられなかった。
それでも叔父さんの供述通りに証拠は浮上し、当然のようにあのろくでなしは二度と刑務所から出られなくなった。
そのろくでなしが、死んだ。俺の知らないところで勝手に人を殺し、俺に何も言わず勝手に死んだ。詳しいことは……知りたくない。
調べ物が済むとスマホをスリープ状態に切り替え、握ったまま自室のベッドに倒れ伏せた。
苦しい。首だけ回して、呼吸手段を確保する。
叔父さんとの思い出は小学生の頃までしかないけど、大した大人でもないくせにあの人はときどき俺の救いになってくれていた。
どちらかといえば悪友に近く、俺が叱られる時は決まって叔父さんも付き合ってくれていた。
捕まって会えなくなってからでも、どこかで生きてるってだけで俺もなんとかやっていける気がした。
でももう、どこにもいない。初めての感覚だ。胸にぽっかりと、風穴が空いたような感覚。
悲しいのに、泣く気も起きない。ていうかずいぶん顔を合わせてないもんだから、本当にいなくなったっていう実感が湧かない。
なー。会いてぇよ叔父さん。
夢にくらい会いに来てくれよ。
……────
めぐる。
「めぐる」
ん。
「ごめんね、起こしちゃって」
ああ、寝ちまってたか。俺を起こしたのは、どうやら恋愛だった。腰を折りながら覗き込むように、傍らに立っていた。
その向こうに掛けてある時計を確認する。時刻はまだ四時前だった。
「どうした? こんな時間に」
起き上がってから、左手でポンポン、とベッドを軽く叩き恋愛を隣に座らせた。
「ちょっと不安っていうか、気になってさ」
「なにが?」
訊くと恋愛はおもむろにこちらに目を合わせ、妖しく笑ってから、
「みやこが、ちゃんと地獄に堕ちたかどうか」
……そう応えた。
「私のパパとママを殺したんだからさ。地獄に堕ちてないと納得できない。それにどんな地獄で、どんな罰を受けているのか見に行きたいの」
それは、そうだと思う。きっとこれは、恋愛に限らない。だけど。
「地獄に行くってことは、つまり……」
その先を言おうとして、唾と共に呑み込んだ。縁起の悪いことは、あまり言いたくない。でも多分、改まって俺のところにこの話をしに来たってことはやっぱり……
「めぐる、変なこと考えてる?」
「え? あ、いや別に」
恋愛の迫る小顔と大きな瞳が、一瞬で考えを振り払った。
あまりにも近いもんだから、反射的に顔を逸らしてしまう。
「安心してよ、大層な事件を起こす勇気なんて、私にはないから。ただ、地獄を見に行くだけだよ」
「だから、それをどうやってだな……」
ふと、隣の恋愛は俺の左手に自らの右手を重ねた。いつも通り、柔らかくて暖かい手だ。
「京都に、地獄へ通じると言われる場所があるの。めぐるの能力なら、もしかしてと思って」
ああ、なるほどな。確かにそれなら、やってみる価値はありそうだ。しかし。
「わかってると思うが、帰って来れないかもしれないんだぞ」
「今までもそうだったでしょ。けど、手を離さなければ、ふたりならきっと、みちに迷わないから」
「どうだろうな。今回は少し、変わった使い方だから」
そこまで話して、突然恋愛がクスッと笑った。
なんだよ? と、眉をひそめて訊ねる。
「優しいね、めぐる。今回は完全に私のわがままだから、嫌なら嫌って言えばいいのにさ。まるで、断るつもりなんかないみたいに話してくれて」
は。
「いや、ただなんとかお前の気が変わるように説得してるだけで……」
「説得なんかより、断る方が手っ取り早いと思うけど」
言い返せない。全くその通りだ。
「なにより、どんな説得されても私は折れないよ。でも、はっきり嫌って言ってくれれば諦める」
どうする? と首を傾げる恋愛とまた目が合う。こいつにはもしかしたら、俺の心の中が全部見えているのかもしれない。俺よりも、俺のことをよくわかっているのかもしれない。
俺が断らないのも、その理由も、わかっていたのかもしれない。
実際、結局のところ俺は恋愛のわがままを引き受けてしまった。
「ほんと、変な時間に起こしてごめんね? それじゃ、おやすみ」
恋愛が自室に戻ってから、眠りにつくまでに少し考えた。なぜ俺は断らなかったのか。無意識のうちに、断るという選択肢を頭から消していたのか。
多分、期待していたんだと思う。たとえあの恋愛とは思惑が違くても、あの人と会いたいのは同じだったから。
卍 卍 卍
思い立ったが吉日、ということで、俺たちはすぐにでも京都へ赴いた。
東京駅から、新幹線で二時間と少し。
京都駅に着くと、(あまりの広さに迷いそうになったが)早速目的地へ向かうことにした。
せっかく男女ふたりきりでここまで来たというのに、らしいこともしないなんていささか名残惜しいが、今回はあくまで観光のために来たわけじゃないので、仕方ない。
さて、俺たちはスマホでマップを開き、経路を確認しながら既に地獄かとでも思えるような強い陽射しの下、大都会をゆったり歩き始めた。
駅を出てすぐのところには壮大な筋塀に囲まれた東本願寺があり、この歩道との間には元気な鯉が泳いでいる堀が望める。羨ましい、俺だってプールが行きてぇよ。
境内には入らなかったが、塀に沿って歩を進める中横目でちらりと見やっただけでも、焦げた山門の外観に圧倒され思わず息を呑んだ。
しかししばらく経ってから通り過ぎると、“京都らしさ”を感じられるものはすっかり拝めなくなり、退屈な東京とよく似た都会の姿ばかりが視界を流れだした。
それから、三十分ほど過ぎた頃。清水寺へと続く五条通りから外れ閑静な住宅地へと入り込み、いよいよ目的の場所が近くなってきたというところで、俺は恋愛に切り出す。
「ちょっと、寄りたいとこがあるんだけどいいか?」
「んー。なんの用事で?」
ここに来ての寄り道の提案に不満の隠しきれていない変顔を浮かべる恋愛に、そんな顔するなよと思いながら、俺は応える。
「願掛け」
それは目的地にも近く、まさに寄り道というのに相応しい場所に位置していて、ちらっと覗いてみれば黒光りの観音立像と朱い本堂が目に入る。
しかし今回はそれらには興味はない。境内に入るとさっさと右の方にある手水舎の前に来た。
誰もがご存知のごく普通の手水舎で、柄杓が四つ、綺麗に並べられている。
緑が生い茂っている左端の方で妙に存在感を覚え、そちらに集中すると、
『御無事の帰宅を
【無事かえる】
お祈り申し上げます』
そう書かれた看板と、その手前に蛙のかたちが表面にふたつ彫られた赤子ほどの大きさの石が確認できた。
「俺ら、これから地獄に行くんだぜ? 無事に帰れるように、先に清めとこうぜ」
そう言ってから柄杓をふたつ手に取り、片方を恋愛に渡す。
どうやら彼女も納得した様子で、そのまま正しい作法で願掛けを終えた。
そしてこの六波羅蜜寺を後にし、また歩くこと五分。今度こそ本命の、六道珍皇寺に俺たちは到着した。
出迎えたのは、「六道の辻」と刻まれた碑と、赤い山門。この門をくぐり境内へと足を踏み入れ、最奥にある庭園を目指し参道を進んでいく。途中、(のちに調べたところ、どうやら平安時代初期における詩人らしい。この先にある井戸を冥土への往路として使用していたとされる)小野篁と閻魔王、弘法大師の祀られている閻魔・篁堂や地蔵堂に目を引かれたが、やがて裏に例の庭園がある、目ほどの高さに小窓の空いている締め切られた引き戸の前まで来ると、俺はそこで左隣に立つ恋愛の手を握った。
手を繋いだ相手と強力な縁で結ばれ、恋愛自身が離そうとしない限り、決して離れなくなる能力。ここから俺たちはふたりはぐれないよう、恋愛には常に能力を発動してもらうことになる。
話が逸れたが、普段冥土通いの井戸があるこの庭は公開されておらず(期間限定で解放されている時期もある)、このように入れなくなっている。
つまり、ここから能力を使う必要がある。
人がふたり消えるところを見られると少し面倒なので、一応周囲を見渡してみる。幸い、すぐ近くの鐘楼まで参拝に来ている者はいなかった。
ふと、唇をきつく結んでいる恋愛と目が合う。彼女も俺と同様に、緊張せずにはいられないのだろう。
あまり意味はないのだが、気持ち強めに恋愛の手を握り直すと、今度は俺も────予定通り、能力を発動させた。
卐 卐 卐
辺りは一変し太陽が出ているとは思えないほど青白い薄闇に包まれ、ひんやりした空気が肌を撫でる。
ここが、いわく付きの世界。その姿は現世のものとそっくりそのままだが、本来生者以外しか存在しえないいわゆる「霊界」。
しかしこれではまだ足りない。地獄へ行くには恐らく、この先の「冥土通いの井戸」を更に通過する必要がある。
俺は指先から庭園への引き戸に触れ、そのまま水面に潜り込むようにすり抜けていく。
続いて恋愛も同じようにすると、そこからもっと奥の方に、確かに井戸らしきものを発見した。豊かな木々に囲まれ、周囲に小さな地蔵のようなものもある。九十センチ四方ほどの井戸自体には、紙垂をつけられていて、ぬかりなく蓋がされている。
普通なら当然、この井戸に入ることはできないが、ここは霊界であるため現世の住民である俺たちはある程度物理的なルールを破ることができる。
恐る恐る、その中身を覗いてみる。暗くてよく見えない。
だが、やることは変わらない。今一度恋愛と顔を見合わせ、彼女と手を繋いだまま胸元に抱き寄せると、井戸の縁から身を乗り出してから、その口を塞ぐ狐格子の板を何事もなく透過し────そして一層強まる冷気の中で、爽快な浮遊感に全てを委ねた。
卐 卐 卐
「めぐる」
……あ?
「やっと起きた。何回呼んだと思ってんの」
「……わりぃ」
今までこんなことはなかったのだが、いつの間にか気を失っていたらしい。
そしてもうひとつ、未曾有の事象が起きていた。
「これは……成功したということでいいのか?」
「多分」
そう思ったのは、また空気や雰囲気が変わっていたからだ。空は赤く焼けていて、また肌にまとわり這いつくばるこの熱気から汗が滲み出ている。
現世から霊界へ来るのと同じように、建造物の一切に変化はないようだが、明らかに世界が違った。
しかし成功したということは、やはりそれなりに現世へ帰れなくなるかもしれないというリスクもついてくる。ここはさっさと用事を済ませ、こんなところから一刻も早くおさらばしたいところだ。
「なあ、恋愛……!?」
言い終えるより早く、恋愛は繋いだままの俺の手を引いて立ち上がった。
「うん、行こう」
そのまま強引に、来た通りに庭園を駆け抜け、先程すり抜けてきた引き戸を前に突然止まった。
その原因は、すぐにわかった。目ほどの高さに空いた小窓からこの庭園の外を見てみると、来る時に通った閻魔・篁堂の前にひとりの人間が石の上に跪き、しばらくすると絵の具で塗りつぶされたように真っ青な肌に袴を穿いた醜い人型に六道珍皇寺の外へ連れ去られて行った。それから少しするとまたひとりがやってきて、同じことを繰り返している。
そしてどうやらよくみると、堂の辺りにももうひとり人間がいるのだが、先の醜い人型とは違い痩せ型の少年のように見える。
遠目に見てもはっきりわかるくらい豪快に輝く宝冠をかぶり、どことなく中華の品格が感じられる赤い着物に白い帯は、そのスタイルの良さを引き立てている。
これがまさしく、死者の行先を決定する裁判的なものなのだろうか。
しかし本来ここに来るはずのない俺たちがいるとバレたらどうなることか想像の域に達しないため、無闇に出ていく勇気はない……とは言ってもこのままでは六道に出て目的を果たすことができない。
さて、どうしたものか……。
────「「えっ!」」
バタバタバタ、と俺たちは前方へ倒れ込んだ……ようだった。
霊界とは違いお互い以外のものに触れることができるのはとっくに気づいていたし、そのため戸にもたれかかって様子を窺っていたのだが、突然その支えていた戸が解放され、そのような事態が起こったのだ。
もちろん、閻魔・篁堂の前にいた一同はこちらに注目している。まずいか? これ。
ていうか、なぜこうなった。勝手に開くはずなんてないから、誰か……
「やっと気づいたかのう。まったく、なぜ生者がここにいるのじゃ」
声も顔も体つきも明らかな幼女が、後ろに立っているのに気づいた。もちろんこの口調は、その外見にはとても似合っていない。
足元まで伸びた尋常じゃないくらいの長髪は淡い紫色に染められていて、小さな頭の上にはさっきの少年(こちらを気にしつつも、裁判は続行しているようだ)と同じ金色の宝冠がちょこんと載っている。これまた同じく白い帯で着付けられた赤い着物からは、適度に肉付きがよく若々しい脚があらわになっていて、眺めているとよくない感情が湧いてきそうになる。
ちなみにあらかじめ言っておくと、俺はロリコンじゃない……って、ふざけてる場合か。
どう見ても引きつっている恋愛の顔は見なかったことにし、腰に手をやり無い胸を張っている幼女に応えてみる。
「ちょっとこれには、まあ、わけがありまして……」
すると幼女はひとたび眉をぴくりと動かすと、おもむろに腰を曲げ俺の顔を覗き込んでから、
「ほう? 詳しく聞かせてもらおうか」
なぜか高圧的に(しかし全然怖くない)そう言うと、ついてこいと俺たちを本堂へ招き入れた。
かくかくしかじか、これまでの経緯を説明しているうち、幼女の威圧的になれないぎこちない態度に逆に緊張感がほぐれ、恋愛も普通に話せるようになっていた。
ところでこの幼女は閻魔壱というらしく、地獄での閻魔大王という役割を現代のようにシフト制で、他数人とその役割を担っていると言う。
さて、お互い事情を把握したところで。
「だからお願い、壱。閻魔なら、自分の裁いた人がどの地獄で責め苦を受けているかわかるでしょ?」
「何度も言っとるが、生者はこんなところに長い間おるべきじゃないんじゃ。諦めて帰っとくれ」
そんな言い合いが始まった。
「はるばる地獄まで来たのに、壱って冷たいんだ!」
恋愛の涙声に、壱は唸りながら
「主らのことを想って言っとるんじゃが……」
そう呟いていた。
しかしずっと滞在していると地獄の住民になってしまうのが本当なら(現世に現れる悪霊と似た原理らしい)、こうしていがみ合っていても無意味に時間が過ぎていくだけだ。
もちろん、取り返しのつかないことになって欲しくないという壱の気遣いはありがたい。それでも、俺たちは明確な目的があってここに来ている。決して生半可な気持ちという訳ではないし、何より俺はやっぱり、少しでいいから叔父さんとまた話したいという本音がある。
だからここは、思いやりを踏みにじるようで申し訳ないが、俺も話し合いに参加させてもらう。
「なあ、壱。もしここにい続けることで帰れなくなるとしたら、制限時間はだいたいどれくらいだ?」
「としたらとはなんじゃとしたらとは! 確実にそうなるから言っとるんじゃよ」
「それは、すまん」
ふぅ、と息をつき、壱はすぐさま
「まあ、向こうの時間で丸一日じゃろうな。つまりこっちで考えるとだいたい八日ぐらいじゃ」
そう応えた。
「ひとり見に行くだけなら、それだけあれば十分だと思う。だから、連れてって」
「俺からもお願いだ、壱。頼む」
頭を下げている時まで手を繋ぎっぱなしなのは置いといて、これまでにないほど俺は真剣だった。
結果、先に折れたのは壱。
「仕方ないのう。そこまでいうなら、なるはやで済ませようかの」
やった、と空いている方の手でガッツポーズを作ってみせながら満面の笑みを浮かべる恋愛。
「ありがとな、壱」
一応これだけ言っておくと、壱は鼻を鳴らしてから俺たちを山門の外へ連れだした。
そこではまた世界が急変し、まさに人々が説いたような地獄が、確かに存在していた。
途方もなく広大な空間を、互いに傷つけあう無数の廃人と、そうはならざるものをあらゆる残虐な手段で殺し続ける青く醜い人型────もとい獄卒(こっちもやはり無数だ)が闊歩している。
殺しあう者の多くは悲痛に泣き叫んでいて、その不快な阿鼻叫喚は実に耐え難いものだった。
「等活地獄。殺生を行ったものが堕ちる場所」
「ここに、叔父さんが……」
この広さと人数の中特定の個人を探すことなど不可能に近いと頭でわかっていても、どこかにあの人がいると言うだけでどうしても探してしまう。それは恋愛も一緒だった。
「アホか主らは! わしは閻魔じゃ、人探しくらいそこらの獄卒を使えばたやすいことじゃよ」
なら口を動かす前にさっさとやれ、と言いそうになるのをぐっと堪える。
「聞いたか、恋愛。案外あっさり会えるもんだな……」
と。恋愛の様子が、なにかおかしかった。
元から大きい瞳をまた一段と見開き、そして繋ぐ手は恐ろしく震えている。
「いた……」
「いた?」
「なんで……」
カタカタ、と歯が音を立てている。頬を伝い顎から垂れる不穏な汗の量も尋常じゃない。
なんで? その先を訊ねる前に、彼女の左手人差し指が示す方向を見て俺は察した。
「なんで、パパがここにいるの……」
依然として叫びながら他者への殺意のみを原動力に放浪する廃人を、恋愛の父親は嬉嬉として血祭りにあげていた。
こんなことは彼女の前で声に出しては決して言えないが、その姿はさながら快楽殺人者のように見えた。
「主の、父親か。なぜあやつがこの等活地獄に堕とされたか。知りたいのか?」
は……壱?
「聞くな恋愛」思考が追いつく間もなく勝手に口が動く「当初の目的を忘れるな。俺たちはなんのためにここに来たんだ!」
声を、荒らげてしまった。それでも俺は、想定外の出来事に引っ張られないでほしかった。
なにより、自分からまた傷つくかもしれない選択肢を選ぶなんて、してほしくなかった。
しかし恋愛は一言だけ、俺に「ごめんね」とだけ言うと、
「私、パパが地獄に堕ちなきゃいけなかった理由を知って、納得しなきゃいけないんだと思う。だから……」
壱、教えて、と。空いている左で壱の右手を取りながら、最後にそうとだけ続けた。
卐 卐 卐
閻魔にはその役割の性質から来ているのか、それともこういった能力を持ち生まれたから閻魔という役割を持ったのかはわからないが、共通のチカラを持っているらしい。
対象の記憶を意識だけが体験する。そして体験中、実際に経過している時間はほんの一瞬であり、感覚としては閻魔がひとりの人生を長い時間かけて体験していても、相手からすれば刹那の間に仕事が終わるため、裁かれるまでに決して気づくことはない。
ちなみに俺たちにこの話を最初にした時、壱は「とんでもないブラックだ」と愚痴っていた。
さて、話は戻り、一色父の罪を、彼の記憶に則って壱と共に体験していく。
結果、少年時代から動物虐待の末に殺害を多くしており、その頃の懺悔無き殺生が等活地獄へ堕とされる決め手となったという。
「それだけで地獄なの? わかんない。そのためにあんなに狂わされちゃって、パパかわいそう」
「尊い命を奪っておいて『だけ』で済ましていいものではないんじゃよ。残念ながら、これらの行動が災いしたな。ところで、そろそろ主が生まれるぞ」
一色父は十代を卒業すると、動物に対する殺生は少なくなり、恋愛が生まれた頃にはさすがに、さっぱりその気はなくなっていた。
しかしそれから今度は、母親の恋愛に対する異常なまでの愛情が、この父親の視点を通してまでも伝わってきた。
恋愛が小学校に入学すると、母親は衣服やランドセルに盗聴器を仕掛け、どんなに些細なちょっかいでも出してくるものがいれば恋愛の知らないところで、制裁を加えていた。
それが結果的に、恋愛の周囲から親しみを持って接してくれる友人の存在を消してしまっていた。
そして恋愛が二年に上がって間もない頃。時間軸として、彼女の両親が亡くなるほんの少し前の事件。
当時の恋愛と同級生の男子生徒一名を含めた一家失踪事件。一色父の視点における発覚は、一色母がこの一家全四名の遺体を運び出してきたことによるものだった。
「最近、あの子の物がよくなくなると思ってたのよ。けれど、音声だけじゃ手がかりはなくて。でも試しに小型のカメラを試してみたら、一発だったわ」
一色父は母の行動に口を挟まず、ただ黙ってそれらの遺体を処理した。
迅速に、狡猾に。
それから彼らは何事も無かったかのように恋愛との日常を過ごし、ある夜、みやこ叔父さんに殺害されることによって生涯を終えた。
「もちろん四人もの人間を殺したこの母親も同様、この等活地獄で責め苦を受けておる」
「……」
「主の両親は、本当にうまくやってのけたと思うぞ。あれだけの事件を起こしといて、死ぬまでの数ヶ月間バレずに生活してたんじゃからな」
地獄へ戻ってきた俺たちの視線の先で、未だに一色父は、心なしかさっきよりも活き活きとした様子で踊り狂っていた。
「あの父親については、生まれ持ったものというか、最初からおかしかったのじゃろうとは思うが、世の中にはあの母親のように、時に愛は人の命よりも重くなるものなのじゃ」
それまで、恋愛はひたすら絶句した様子でただ壱の話を聞いていたが。
「それでも、最後まで愛を受け取っていた私だけは、パパもママも赦してあげなくちゃならないと思う」
喉元から絞り出すように、そう呟い────
「恋愛!?」
おもむろに、恋愛が俺の手を強引に引き自らの父親の方へ歩きだした。
「待てよオイ、どう考えても危ないだろ!」
あんな様子で殺戮を楽しんでいる人間に自分から近づいていくのは、自殺行為ではないのか。素直にそう思える。
「あーそれについては安心して良いぞ。ここの罪人たちはあくまで互いにしか害心を抱かん」
しかしこれは思わぬ答えが返ってきた。
「それでもさすがにあんなの、近づけ」
え。
「恋愛!」
左手の感触がなくなっていた。
あろうことか、恋愛の方から手放されてしまったらしい。
今の一瞬のうちに、恋愛は俺よりも自分の父親の方に距離を詰めていた。
一方の父親は、どうみたって鉄の爪を立てて我が子だろうが関係なく引き裂こうと向かっているようにしか見えない。
「あれほんとに大丈夫なんだろうな!?」
「わしが言ったのは罪人どうしに生じる害心のことのみじゃ。しかしあそこまでハイになってると、もう関係ないのかもしれん」
「はぁ!?」
もう、考えている余裕はない。久しぶりの全力ダッシュ。
が、時すでに遅し……あの父親は鉄の爪を立てたまま、恋愛に向かって振り下ろした。
グチャ、と何か濡れた重いものが地面に叩きつけられたかのような、あるいは落とされたような音が、三、四度あった。
一体何が起こったのか、確認するのが怖い。反射的に瞑った目を、開けられずにいる。
「恋愛?」と確認するのすら怖い。返事がないかもしれない。
怖い、怖い、怖────
「いつまでそうやってんだ? めぐる」
「え……」
懐かしい若い男の声。
なんとか恐怖心を抑制しながら、ゆっ……くりと目を
「ほれ、さっさと開けろ」
親指で無理やりまぶたをこじ開けられ、思わずうわぁぁと悲鳴をあげてしまう。
でもおかげで、よく状況がわかる。まず、目の前にいるこの人は……!
「みやこ叔父さん!」
「元気してたか? めぐる」
やばい、もう泣きそう。
次に音の正体は、一色父の腕。結局見てないことには想像で補完するしかないのだが、叔父さんの爪でバラバラにしたのだろう。今はふたりの獄卒に囲まれ、痛々しい音と悲鳴をあげながら身を粉砕されている。
そして恋愛だが、叔父さんが言うには父親の腕が落ちたときには気絶していたらしく、正直好都合だったと笑っていた。
未だに目を覚ましていないが、今度は恋愛の能力などに頼らずとも俺が離さないように、しっかり握りながら肩を貸している。
壱に関しては、よくわからない。でも最後には約束通り叔父さんに会わせてくれたし、悪い奴ではないと思いたい。
それに少しだけふたりで話させてくれるあたり、空気はよめるらしい。
話したいことは、山ほどあったから。
「叔父さん、ほんとに人殺したの?」
「今ここにいるのが何よりの証拠だろ」
「なんで。それもよりによって、恋愛の両親を」
「大義名分があってやったことなら、殺しの罪は軽くなるのか?」
そんな屁理屈で誤魔化されたり。
「叔父さんて彼女できたことある?」
「そりゃあもちろん」
「じゃあ相談乗ってくれよ」
「恋愛ちゃんのこと? 昔から大好きだもんな」
「叔父さんのそういうとこ、割とかなり嫌いだぜ」
冗談言い合ったり。
「二度と会いに来るなよ」
最後だけ、そんな約束をしたり。
本当にたった少しだけ話して、そして恋愛が起きないうちに、叔父さんは俺たちに別れを告げた。
俺はこいつを抱えて歩くのは無理なので、しばらく待つことにし、やがて恋愛が目を覚ますとなにか聞き出される前から帰ることにした。
ちょうどそばに壱が立っているのを見つけると、親切なことに来た時の井戸まで送ってくれた。
「二度と来るんじゃないぞ」
そしてそれだけ言うと、この庭園から去ってしまった。
恋愛はその時点では、俺の口から何も聞こうとはしなかった。
俺はただそんな彼女の小さい手を握ったまま、来た時と同じ要領で井戸の底に身を投げた。
卍 卍 卍
それから特別何事もなく、帰りの新幹線。とりあえず、言っておくべきことは言うことにした。
「壱が叔父さんのことを探しだした時点で半分目的は達成してたと言ってもいいんだろうが、一応俺はあの人と会えた。ちゃんと地獄に堕ちてくれてたよ」
そう、と恋愛は呟いてから、
「壱はずっとうさん臭かったから、それを聞いて安心した。ありがとう」
淡々と、抑揚なく続けた。
結局、恋愛は余計に傷ついただけなのだろうか。
他の誰かに凶刃として向けられた事実を知ったことで、それが両親からの愛ゆえによるものと感じ取ることができたのだろうか。
それは、幸福なのだろうか。
彼女の立場になってみないとそれは到底知りえないことだが、大事なのは理解することよりも、立ち直る時ただ寄り添ってあげることなのかもしれない。
話し相手になってあげるだけでも、恋愛の救いになることができたら、俺はきっと彼女の中で大きな存在になっていることだろう。
かつて、俺にとっての叔父さんがそうであったように。
そしてまた機会があれば、今度こそデートとして、ふたりきりで京都に出かけてみたい。