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 山の天気は変わりやすいと聞いたことはあったが、まさかこれ程とは。
 頭上では、木々の間を縫うようにして灰色の空がちらちらと顔を覗かせている。雲行きが怪しくなったと思った次の瞬間にはもう蝉の鳴き声が遠くにかすみ、辺りには雫が葉を打ちつける音が響いていた。陽が差し込まなくなった辺りは薄暗く、息を吸うたびに湿った土の匂いが鼻腔をくすぐる。
 パーカーのフードを深くかぶり直し、進藤は大きくため息をついた。急な階段が続く山道のせいで、ただでさえ足は悲鳴を上げているのに、それに加えて雨ときた。これはもう地獄以外の何物でもないじゃないか。ぱらぱらと頬を打つ水滴に、進藤は憎らし気に顔をしかめた。
 ぬかるむ地面に細心の注意を払いながら、手すりを頼りに前へ前へと足を進める。舗装された道も、明かりの灯る外灯もここには存在しない。四方八方を黒々とした木々の群れに囲まれ、足場は悪く周りは急斜面だ。足を滑らせたらどうなるか分からない。一歩一歩を確実に。足元を確認しながら、慎重に歩みを進めていく。
 きっと、普通ならここで引き返そうと思うのだろう。天候もよくなければ、決して楽な道でもない。だが、せっかくここまで来たのだ。三十分もかけて登ってきた。そこから引き返してしまうことは、どうしても進藤には考えられなかった。急な階段のせいで足がパンパンでも、呼吸が乱れて胸が苦しくても。どうしても。
 しかし、やはり山で無理をするものではない。早々に引き返してしまった方が良かったのかもしれない。
「うわっ」
 一瞬だった。前髪から垂れた水滴が目に入って、進藤は左手で目元をこすったのだ。それと同時に踏み出した右足が、雨でぬかるんだ地面に足を取られる。とっさに手すりをつかむ右手に力を入れるが、雨水で濡れた手すりはよく滑る。一瞬のうちに、進藤の目線は空を捉えていた。
「危ないっ!」
 焦ったような若い男の声が聞こえて、進藤の左手が引っ張られる。思っていたような衝撃はなく、おそるおそる目を開けた進藤の視界に、黒髪の青年の姿が映った。
「あ、りがとう。悪い、助かった……」
 すごい勢いで引っ張られて、今度は前のめりに転びそうになるが、今度こそ進藤は必死に手すりをつかんで回避する。お礼の言葉と共に視線をあげた進藤は、そこで初めて自分を助けてくれた青年の姿をきちんと確認することが出来た。
 真っ黒な髪と真っ黒な瞳。精悍な顔つきをしている。進藤よりも少しばかり背が低いが、小さな帽子のようなものをかぶっておりそれを加えれば同じくらいだ。修行僧が着るような衣服に身を包んでおり、何となく不思議な雰囲気のある青年だった。
 なんていうんだっけな、ああいう服装。山伏みたいな……。
 呆けた顔でそんなことを考える進藤の顔を、青年は鋭い目つきできっとにらんだ。
「お前、危ないだろうが! 死ぬとこだったんだぞ」
 死ぬ、その単語に今しがた起こった出来事を思い出し、進藤はハッと背後を振り向いた。すぐ後ろには登ってきたばかりの階段がかなり下まで続いていた。ここに倒れこんでいたら、大惨事になっていたことだろう。雨で体温を奪われた体から、さらにすっと血の気が引く。
「いやほんと、すみません……。助けてくれてありがとうございました」
 頭を下げた進藤の頭上で、青年はフンと鼻を鳴らす。
「山を降りろ。途中まで送る」
 それだけ言って背中をむける彼に、慌てて進藤は声をかけた。
「いやあの、俺、送るって言ってくれてるとこ悪いんだけどこのまま頂上目指すから……」
 申し訳ないけど、そう言いかけて口をつぐんだ。振り向いた青年は眉間にしわを寄せて、不機嫌そうな態度を隠そうともせずに進藤を見つめている。その佇まいには、えもいわれぬ迫力があった。
「ふむ。さてはお前、自殺志願者か」
「いや、そういうわけではないけど……」
「なら、何故そのような命知らずな行動をとる。もうすぐに日が暮れ、獣が活動を始める時間になるぞ」
 蝉の声をかき消すような雨の中でも、彼の言葉は凛と澄んで耳に届く。濡れた前髪をうっとうし気にかき上げる彼の真っ黒な瞳と声が進藤をまっすぐにとらえる。
 問いの答えを求める彼に、進藤は少し悩んで口にした。
「なんていうか、俺にとってこれは修業なんです。そう、修業! だから、登り切らなきゃいけないんです」
「ほう、修業か」
 修業という言葉を聞いて、わずかに彼のまとっていた空気が和らいだ。どうやら、進藤の出した答えは、彼にとって悪くないものだったらしい。
「それなら私と同じだな。確かに、ここは己を鍛えるにはよい場所だ。あの有名な源義経公も、この山の僧生坊様のもとで修業を積んだらしい。知っているか?」
 修行僧のような、という最初の印象はどうやら的中していたらしい。
 彼の問いかけにうなずくと、彼は満足そうな笑みを浮かべた。
 その様子にほっとすると同時に、進藤は耐え切れずにくしゃみをする。長い間雨に打たれていたため、すっかり体温が下がってしまっていた。そんな進藤の腕を引いて、比較的雨が当たらない場所へと青年は誘導してくれた。
「軟弱だな。して、何の修業をしているんだ?」
 興味津々といった様子で尋ねてくるその問いに、進藤はどう答えようかと腕を組む。
「なんていうか、んー、なんていうんだろう。何の修業って言うんだろう、しいて言うなら内面的な? 自分の現状を変えたかったんだよ」
 絞り出した言葉を口にすると、案の定青年は首を傾げた。
 いったいどう伝えたらいいのか、と口にした進藤自身も首をひねる。
「山を登り切ったくらいで、現実なんか何も変わらんぞ」
「いやまあ、それはそうかもしれないけど……」
 それは、進藤自身にとっても難しい問題だった。
 もちろん、山に登ったからといって、自身をとりまく環境や現実が一新されるとは思っていない。しかし、自分の中で何かが変わるきっかけにはなるのではないかと思ったのだ。山を登りきるという目標を達成することで、何も成し遂げられない自分から変われるんじゃないかと、そんなことを期待したのだ。
「なんていうか……俺の中では大事なんだよ、そういうの。気持ちの問題、というか」
 こんな話を人にするのは初めてで、進藤の言葉は段々としりすぼみになっていく。
 しばらく考え込むように腕を組んでいた青年が、ぱっと顔をあげた。まっすぐに人を見つめる彼の瞳と視線が合って、進藤は固唾を飲む。
「そうか。なら山を降りろ」
「……いや、だから俺は……」
 表情を変えずに、青年は続ける。
「そのような理由があるなら、尚更日を改めろ。今後のための行動で命を落としてどうする。今日が駄目でも明日があるだろう。」
 彼の言葉に、進藤は驚いて目を見開いた。
 今日が駄目でも。その言葉は静かに進藤の心を揺らした。
 進藤の思いを受け止めた上での青年の言葉は進藤自身にも納得できるものであり、背を向けて歩き出す彼の背を進藤は何も言わずにゆっくりと追う。
 雨は変わらず進藤を打つが、それは前ほど苦しいものではなかった。
「この道を行け」
 不意に立ち止った青年が、行きの時とは異なる道を指さした。すぐに追いついた進藤は、彼の隣に並び、指さされたその道に視線をやる。
 こんな道があったのか。
 来るときには全く気付かなかったそこは、急な階段も手すりもない緩やかな下り坂だった。どういうわけか雨の影響もなさそうだ。
「まっすぐ行けばふもとにつく。この道ならすぐだ」
「あ、えと、色々ありがとう。」
 頭を下げ感謝の言葉を述べ得る進藤に、青年は初めて笑みを見せた。
「気を付けて帰れよ」
 青年に手を振って、進藤は踏み出した。乾いた土を踏みしめる感触と頬を撫でる風の温かさに、不思議な感覚を覚える。雨音がひどく遠くから聞こえる気がした。
「あ、そうだ。名前……!」
 そう思いだして振り向くが、そこに彼の姿は無い。まるで消えてしまったかのように。
 思えば、彼との出会いも唐突だった。不思議な人だ、と進藤はまた歩みを進める。雨に濡れていた彼の体は、いつの間にかすっかり乾いていた。