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 今日も、呼ばれている気がした。
 あの暗闇に。
 あの橋に。
 そう思った瞬間、足が止まっていた。つるんでいた奴らが、こちらへ視線を向ける。
「あ、ワリ! 俺、今日は早く帰ってこいって言われてたんだわ」
 そう言うと、隣を歩いていた奴が口を尖らせた。
「えー、もう夜九時だぜ? 遅いし関係ねーって!」
「そんな訳にもいかねぇってば、マジでスマン!」
 ヘラヘラと笑いながら謝り、閑散とした住宅街の角を曲がる。背後から数人の不満げな――でもテキトウな声が聴こえたが、すぐに遠くなった。ファミレスにでも行ったのだろう。
 毎日毎日、よくあんなにも無駄に騒げると思う。何が楽しいんだろうか。バカみたいだ。夏『休み』って言うくらいなんだから、休めば良いのに。
 でもどうせ、アイツらとの関係はそんなモンだ。ラクで良い。テキトウでいいのだから。
 ……まあ、同じ高校の同じクラス、という理由がなければ会話もしていなかっただろうけれど。
「たしか……こっちか」
 長年この土地――京都市に住んできた勘を頼りに足を進める。そして、案の定すぐに目的のモノが見えてきた。
 見た目は、普通のコンクリートとアスファルトで出来た短い橋。
 橋のこちら側には、住宅や、ちらほらと商店や小さな工場が立っている。そして、向こう側には十一階建てのマンションやビルが立ち並んでいるのが見えた。
 そんな、普通の橋――なのだけれど。
「タイマー、二時間でセット」
 スマホにそう音声入力し、「セットしました」と返事をもらう。コレが鳴るまでには、『コッチ』へ帰って来なくてはならない。
 一応、周囲に視線を向けるけれど……人影はなし。いつも通りの、怖いくらいに人気の無い通りが広がっている。当然だ。
 目を閉じて息を止めて、橋へ足を踏み入れ――――

 ――――渡りきった。
 目も口も開けて、周囲を見渡す。
 そこには、いつも通りの、怖いくらいに人気の無い通りが広がっていた。
 さっきと――橋を渡る前と、何も変わっていない。……いや、正確には『合わせ鏡』のような風景だった。
 橋に掘られた『一条戻(いちじょうもどり)橋(ばし)』という文字も、鏡文字になっている。
 それに、肌を撫でる空気が生暖かくなった。夏特有の湿気臭いカンジだけじゃあなくて、もっと根本的な……心臓を素手で撫でられているような、嫌な空気が漂っている。
 車の音がしない。
 虫の声も聴こえない。
 人の気配も――――。
「こんな所で、どうかしたんですか?」
 不意の声に、息が止まりかけた。
 思わず一歩後ずさり、声がした方へ視線を向ける。道端に設置された自販機のすぐそばに、ポツンと一人で立つ少女が居た。パッと見は、俺と同い年くらい。
 腰まで真っ直ぐに伸びた黒髪が、雪みたいに真っ白い肌に映えている。グレーのワンピースの裾が、風にヒラヒラと揺れていた。
「あ、あの? ここ、あんまり近づかない方が良いと思いますよ……?」
 返事をしない俺を見て、彼女が近づいて来る。
「大丈夫、分かってて近づいてるから」
 そう答えると、彼女はやけに整ったその顔を困ったように歪ませる。まるで『本当に分かっているの?』とでも言いたげに。
 でも、なんとなくだけれど。勘違いしているのは、コイツの方な気がする。
「いや……その橋、『一条戻橋』って名前なんですが」
 誤解を生まないよう言葉を選ぶようにして、彼女が口を開く。
「『死んだ人が生き返る』とか色んな噂があって、その」
 知っている。京都に住んでいなくたって、ネットで調べればすぐに出てくる話だ。
 ――やっぱり、この人は勘違いをしているんだろう。
「でも、ここら辺に住む人は『死者の世界に繋がっている』って、この橋を極端に避けるんです。それは多分……その噂が本当だから」
 信じてもらえない、とそう思っているんだろう。俺よりも随分背の低い彼女は、チラチラと確認するように見上げてくる。
 でも残念ながら、俺はその話を信じている――というより、現在進行形で体験していた。
「いや、その話は『多分』じゃあない。本当の事だ」
 そう答えると、彼女は大きく息を吐き出した。伝わってよかった、とでも考えているのかもしれない。
「ただ、アンタは勘違いしていないか?」
「え、勘違い、ですか?」
 その大きな瞳が、微かに揺れた。
 ……本当なら、こんな事は知らない方が良いのかもしれないけれど。
「一条戻橋は、たしかに死者の世界に繋がっている。ただ、その『死者の世界』ってのは、『コッチ』側の事だ」
 目の前の少女が、顔を強張らせる。まるで、理解を拒んでいるようだ。その気持ちは、なんとなくだけれど分かる。……だからって、言葉を飲み込むつもりはないけれど。
「アンタ、自分の身体を良く見てみろよ」
 その言葉に、彼女の視線がゆっくりと下を向く。
 自身の両手を広げ、そして。

「――透けて、る」

 そう呟いた。
 まるで、事実を噛み締めるように。
 多分、そうするしかないから。

   ◆

 今日も橋を渡る。
「タイマー、二時間でセット」
 そうスマホに呟いてから、日付を確認する。九月の下旬――夏休みももうすぐ終わりで、『橋の向こう』で少女と出会ってから、ちょうど丸一日後だ。
 連日で橋を渡るのは初めてだったけれど……なんとなく、彼女の事が気になってしまったから。まあ、彼女が今日も橋の近くにいるとは限らない――のだけれど。
 ――いた。
 自販機に背を預け、お尻の後ろで手を組みながら空を見上げている。
 赤いフレアスカートに黒ノースリーブという格好が、橋周辺の嫌な雰囲気から浮いている気がした。まるで、『死んだ』という事実を拒絶しているような。
「あ……よかった。今日も来てくださったんですね」
 俺に気が付いた彼女が、そう言いながら近づいて来る。パタパタ、と飼い主を見つけた犬のようだ。
 だから、思わず驚いてしまった。だって、こんなに元気だとは思っていなかったから。
 いや、普通はそう思うだろ。『オマエは死んでいる』だなんて世紀末でしか聴かないような台詞を吐かれ、自分の身体が透けていて……。
「……?  どうかしたんですか?」
「……いや、なんでもない」
 そんな俺の返事に、彼女は首を傾げる。が、すぐに元の様子に戻った。
「そうだっ。あなたに会えたら、お願いしたかった事があるんです」
 その言葉に、顔をしかめそうになる。そんな台詞、どう考えたって嫌な予感しかしない。
 このまま、返事もせずに帰ってしまおうかとも思う。今まで、ずっと面倒事は避けて生きて来たんだ。なら今回もそうすれば良い……ハズなんだけれど。
 何故だか、足が動こうとしない。
 それは多分――彼女の目が、物凄く真剣だったから。
「あの、私を撮ってほしいんです。カメラで」
 ぐいっ、と顔を近づけられる。まるで、盛ったカップルのような距離だった。
 彼女のハッキリとした鼻筋が、整った顔立ちが、良く見える。
「いやでも……俺、カメラとか持ってないし」
「スマホで充分です!」
「写真撮るのも、上手くないし……」
「私だって撮られ慣れてません!」
 必死な彼女の様子を見て、思わず下唇を噛む。
 だって、どうしてそんな必死になれるんだろう。意味が分からない。がんばったって、どうしようもないじゃないか。
「俺がコッチにいられる時間も、長くないんだ。それに……」
「それに?」
 それに、『コッチ』の人間は、写真に残り続けられない。
 一定期間が過ぎれば、写真から姿が薄れて消えてしまう。まるで、ソレが正しい姿だ、とでもいうように。
「……いや、なんでもない」
 やっぱり、無理だった。『アンタのやろうとしている事は無駄だ』と吐き捨てればいいだけなのに、口がその言葉を拒む。
「……ダメ、でしょうか?」
 上目使いで、そう尋ねられる。多分、彼女自身に自覚は無いのだろうけれど……いじめてしまっているような気がしてきた。
「短い時間で、アナタの気が向いた時だけで良いんです。なのでっ」
 がばっ、ともの凄い勢いで頭をさげる彼女。そんな姿を見て、ふと、思ってしまった。
 ――もし、彼女につきあったら。俺は、ナニカを得られるだろうか。
 その真剣さの意味が、理解出来るだろうか?
「……分かったよ」
 気が付いたら、そんな言葉が飛び出していた。
 自分自身の言葉に混乱する。意味が分からない。自分自身が理解出来ない。ずっと、こういう面倒な事を避けてきたハズなのに。
 でも、なんとなく……。心臓が高鳴る。口角がやけに緩む。そんな感覚は初めてで、この感情の名前が分からない。
 そんな俺に向かって、彼女が嬉しそうに笑う。
「あ、ありがとうございます!」
 そして、自販機の前へ走って行く。そのまま、再び手を組んだポーズで固まってしまった。
「じゃあまずは、ココで撮ってくださいっ」
 もっと、撮影にふさわしい場所はあるだろうに。
 思わず、なんとなく笑ってしまいそうだった。

   ◆

 嬉しそうに石畳の階段を上る彼女―弥生(やよい)さんの写真を撮る。
 左右反転した清水坂には、俺と弥生さん以外の姿はない。けれど、街灯は夜を照らし、無人のお土産屋は来ぬ客を待ち続けている。
「長月(ながつき)さんっ、アッチで休憩しませんか?」
「ああうん、ちょっと待って」
 はしゃぐ彼女の後を追い、お茶屋の店先にある長椅子に座る。
 そして、弥生さんが言う前に鞄からA4封筒を取り出す。短編小説ほどの厚さを持つソレは、ここ二週間で撮った写真だった。
「けっこう撮りましたねぇ」
「そりゃ、『ここ撮ってください、そのあとはコッチ』ってずっと言っている奴がいるから」
 俺の言葉に、彼女がアハハと申し訳なさそうに笑う。もう少し人使いの荒さを自覚してほしい。
 ただまあ、弥生さん自身に体力がなくて、すぐに休憩を挟んでもらえるのはありがたかった。
「うわ、コレ撮ってたんですかっ」
 そんな言葉に、彼女の手元にある写真を覗く。
 伏見稲荷で、彼女がこけた時の写真だった。
「いや、撮れたから」
「こんなのすぐ削除しちゃって良いんですよ!」
 肩をこづかれる。まあ、本気で嫌がっている様子もないので、ダメじゃあないのだろう。
 というかまあ、ブレていない写真はかたっぱしから現像しているだけだから、特別な意図なんて無いのだけれど。
 それは彼女も分かっているのだろう。自分の写真を見る姿は、真剣ながらもどこか楽しそうだった。
 だから、ふと尋ねてしまう。
「どうして、写真なんか撮るんだ?」
 俺の言葉に、弥生さんが目を伏せる。が、すぐに口を開いた。
「……始めは、お母さんを喜ばせようと思ったんです」
「お母さん?」
「はい。お母さん、体が弱いんですけれど。でも、幼かった私の『モデルになりたい』なんて夢を本気で応援してくれて。ソレに、応えたかったんです」
 手元の写真に視線を落として、でも暗い声にはならないように。そんな様子で、彼女はポツリポツリと言葉を紡いでいく。
「それが、あんなに必死な理由?」
「必死、と言いますか……」
 人差し指で頬をかき、ニヘラ、と笑う弥生さん。
「ただ、お母さんが笑顔になれば、なって思って……たんです」
 その言い方に、引っかかる。
 思ってい『た』。それはなんとなく、良い意味じゃあないのだろう。
 そんな俺の表情を見たからだろうか、彼女が笑顔を崩す。
「実際、雑誌のモデルオーディションとかに応募して、合格を貰ったんです。すごく嬉しくて、『やっと夢がかなう』って、その事しか頭になかった」
 キュッ、という指が写真の印刷面を滑る音がする。彼女の感情が、その長細い指から漏れ出してしまっているようだ。
 ああ、多分、そういう事なんだろう。
「私、夢中になっちゃって。すぐにお母さんの事なんて忘れてしまっていたんです。独りぼっちにしてしまって……」
 そこから先は、聴かなくても分かった。分かってしまった。
 ありふれた悲劇なんだろう。俺自身、そんな感想を抱かない訳じゃあない。でも。
「死んだんだって分かった時、なんだか安心したんです。天罰というか、『やっぱり』みたいな」
「いや……そこまで、責めなくても」
「良いんですよ、私が納得しているので」
 ……納得、出来るのか。
 多分、俺じゃあ考えられないくらいの努力をしたのだろう。人前に出るのなんて、普通の人間じゃあ無理なんだ。
 なのに。
 自分の事じゃあないのに。努力なんて、するモンじゃあないと思っているのに。何故か、腹立たしかった。何に対してかも分からない怒りが、胃の奥底あたりから湧いてくる。
「ただ。やっぱり、このまま消えてしまうのは嫌だな、って。だから、写真をお願いしているんですよ。結局、『好き』なだけなんです。変わんないですよね」
 ――このまま消えてしまうのは、嫌だ。
 その言葉が、何故か大切な事のような気がして。
 ああ、いや、そうか。弥生さんが真剣になれる理由は、もしかしたらソレなのかもしれない。全部失って、死んでしまって、消えるしかなくて、でも。
 アタマを殴られたような感覚。
 気が付いたら立ち上がっていた。
 急に立ち上がった俺を見て、弥生さんが目を丸くしている。
「ど、どうしたんですか長月さん?」
「ああ……いや。写真、撮りに行きましょう。今日はもう、時間が少ない」
 アラームの残り時間を見ながらそう答える。二時間以上、『コッチ』にはいちゃいけないから。
 そんな俺を見て――何が伝わったのかは分からないけれど、弥生さんが微笑んだ。
「じゃあ、今度はあっちの方へ行きましょう!」
 俺の前を駆けだす弥生さん。
 その後ろを、追いかける。

 ――――その後ろ姿はもう、ずいぶんと薄くなっていた。

   ◆

 夏休み、最後の日。
 俺が持ってきたモノを見て、弥生さんが「えっ」と声を上げた。
「ソレ、デジタル一眼レフってヤツ、ですよね……?」
 そう言う彼女の姿は、もうほとんど透明で。京都駅の改札口が、彼女の顔を通してハッキリと見えてしまう。
 その事に、彼女自身は気づいているのだろうか。……多分、気づいているのだろう。
「そんなに良いヤツじゃあないけど、一応」
 そう言うと、弥生さんは散歩中の子犬みたいな笑顔で首を振った。
「いえ、嬉しいです! 行きましょう!」
 彼女は俺の手を掴もうとして――手がすり抜けた。でも、ソレを気にしないようにして走り出す。
 無人の駅内。
 待合室や通路。
 ホーム、無人で動く電車内。
 いろんなところで、一眼レフのシャッターを切る。その度に彼女は表情をコロコロと変え――レンズに向けて、うっすらとした存在を刻む。刻もうと、もがいている。
 俺が抱えているこの感情は、同情なのだろう。どうしようもない、安っぽい感情だ。彼女はそんなものを欲している訳ではないのだろうけれど……でもやっぱり、思ってしまう。
 だけど。
 ソレと同じくらい、憧れの感情もあった。
 彼女みたいに、ナニカに熱中して、努力して、頑張った事なんて俺には無い。同級生に合わせて他愛のない会話を交わし、日常を溶かし、汗とか涙なんて関係のない事だと思っていた。
「長月さん!」
 大階段を上り、俺を見下ろすような位置で彼女が振り返る。
 そんな姿にシャッターを切り、手を振りかえす。
「私、もうすぐ消えるんですよね!」
 明るい声音。
 明るい表情。
 受け入れているみたいだ。
「流石に、こうなってくると分かっちゃうんです!」
 液晶画面を見ながら。
 シャッターを切りながら。
 彼女を、見る。
 大階段のイルミネーションが、漣のように彼女の周りを漂う。
「あのっ、ありがとうございました! ワガママにつきあっていただいて!」
 涙は出ない。
 ああその時が来たんだな、としか思えない。思いたくない。
 だってコレは、彼女の感情だから。俺ががんばって得た感情じゃあない。だから……だから、だから。
「長月さん! ――――っ!」
 彼女の言葉も薄れていく。
 消えていく。
 なくなる。
 だから、俺は……シャッターを切る。最後の瞬間まで。
 たとえそれが、なくなってしまうとしても。
「    」
 彼女が、笑っている。
 笑っていたんだ。

   ◆

 眠気を背負いながら、教室の自分の席に座る。
 夏休みが終わったばかりの教室は、気だるくも活気に満ちていて、なんだかヘンな気分になってしまう。
「おーっす長月……ソレ、一眼レフ?」
 いつもつるんでいる奴の一人が話しかけてくる。
「ああ。ちょっと、夏休みの間に初めてさ」
「あーだから忙しそうだったのか。オレらより趣味を選びやがってコノやろ! 何撮ったのか見せやがれ!」
 無理矢理、今朝に印刷したばかりの写真をもぎ取られる。
 が、彼は写真をすぐに返してきた。
「なんだ、フツーの大階段の写真じゃん。もっと面白いのねーのかよ」
 唇をとがらせ、めちゃくちゃつまらなさそうな表情をされる。
 そりゃそうだ。何も無かったら、俺だって同じ反応をするだろう。
「あ、でも。よく人がいないトコロを撮れたな」
「――いや、いるよ」
 そんな俺の言葉に、同級生は首を傾げてしまう。
 でも、たしかに写っているんだ。
 見えないけれど、たしかに。
 だから俺は、彼に言わなくちゃならない。彼女が居る事を。
 彼女が、笑っている事を。

「あのさ、この写真には――――」
(終)