大学四年になって就職活動が始まり、塚田桃は精神的に疲れていた。
自分の取り柄もわからず、グループディスカッションの練習では全く自分の意見が言えず、日常生活でも貧乏くじばかり引かされ、桃は口から魂が出ていきそうだと本気で思った。
ある日の昼下がり、大学の授業を終えた桃は東京国立博物館に赴いた。元々博物館にいくのが好きな桃は、どうにも気が沈んだときは博物館に一人で訪れて現実逃避をしていた。
桃は特に東京国立博物館によく通っていた。大学から近いということもあるが、桃が足しげく通うのには別の理由があった。
東京国立博物館の本館に展示されている無数の仏像。その中の一つ、部屋の隅に置かれた人と同じくらいの背丈の薬師如来像の前に桃はいた。周囲に人気が無いことを確認した桃は、小声でつぶやいた。
「仏さま~、聞いてください~」
『また来たのですか桃さん。今日はどうされました?』
「また面接練習でやらかしちゃったんです~!」
嘘みたいだが、桃はこの薬師如来像と話せる。正確には、この博物館の中で唯一自我を持った薬師如来像の声を聞くことが出来るといった方が正しい。
半年ほど前、いつものように現実逃避をしに東京国立博物館へ来た桃は、『疲れた顔をした方だな』という桃に対する薬師如来のつぶやきを聞き、話せることが発覚。それ以来、桃は何かあるたび、薬師如来のもとに相談しに来ていた。
『桃さん、あなたの強みは他者の話によく耳を傾けられることです。きっと何とかうまく話そうと張り切り過ぎたんでしょうけど、あなたがそれをする必要はありませんよ。自分ばかりしゃべるのではなく、相手とコミュニケーションをとるように話せばあなたらしく話せるでしょう』
薬師如来がそういうと、桃は感嘆の声を漏らし、手帳を取り出してメモを書いた。
「なるほど、やっぱり仏さまは頼りになります!」
興奮からか桃は少し大きい声でそう言ってしまった。すると近くから「えっ」という声が聞こえ、桃は慌てて声のした方に向き直った。
そこには桃と同年代くらいの青年が立っていた。彼は桃に信じられないものを見るような目を向けている。
「あ、ごめんなさい、大きい声出して……」
不審に思われたかと不安になりつつ、桃は慌てて謝罪するが、その声を薬師如来が遮った。
『おや、祐大さん。お久しぶりです』
「え、仏さまのお知合いですか?」
桃が思わず薬師如来に言うと、祐大と呼ばれた青年は満面の笑みを見せた。
「やっぱり! あなたも声が聞こえるんですね。自分だけだと思っていました。お名前をうかがっても? 僕は芦原祐大と言います」
「塚田桃です。私も自分だけだと思ってました。まさか他にも聞こえる方がいるなんて」
二人は夢中になって言葉を交わしていく。苦労人気質という共通点がある二人はすぐに意気投合した。
「あ、私そろそろ行かないと。芦原さん、またここでお見掛けすることがあったら声をかけてもいいですか」
「もちろん。僕からも声をかけさせてください」
祐大の返事を聞いた桃は、嬉しそうに顔をほころばせてその場を去った。
祐大は桃が去っていった方をしばらく見つめると、顔を少し俯かせ口を手で覆った。
「……塚田さん、すてきな人だったな」
『おや? ふふ、そうですか』
「また、会えますかね?」
『会えますよ』
薬師如来は、意識を獲得してから初めて、ため息というものをついた。
桃と祐大が出会って数か月が過ぎた。その間も二人は頻繁に東京国立博物館に訪れては会って話をした。ただ、それ以外では基本的に接点はなかった。
桃も祐大も、お互いのことを好ましく思っているようで、二人とも最近頻繁に薬師如来の元に訪れては、「あの人に告白したいが勇気が出ない」と再三相談してくるのだ。もちろん薬師如来は相談されるたび根気よくアドバイスをしていたが、事態は一切進展していない。
桃は否定されるのが怖くて自分の意見を言えない性格だし、祐大は慎重すぎるきらいがあった。
両片思いの二人の相談を延々聞いていたら、さすがの薬師如来も「早く告白すればいいのに」とうんざりしてきたのだ。
そこで薬師如来は、一肌脱ぐことを決めたのである。
「はあ~、着物展面白かったな~」
この日桃は、期間限定の企画展を見るために東京国立博物館を訪れていた。というのも、先日相談をしに薬師如来の元を訪れたところ、『今度面白そうな企画展をやるらしいので、よかったらいらしてください』と言われたからである。薬師如来がそのように催促するのは珍しいので、よほど面白いのだろうと思い来た次第だった。
教えてくれたお礼を言おうと、桃は薬師如来の元へ向かった。
するとそこには、薬師如来と談笑している祐大がいた。
「芦原さん、お久しぶりです。芦原さんも企画展を見に?」
桃が駆け寄って声をかけると、祐大は振り返って笑顔を向ける。
「塚田さん! そうです、薬師如来さんに教えてもらったので」
『楽しんでいただけて良かったです』
照れくさそうにはにかむ二人に、薬師如来が声をかけた。そして、普段よりも低めた声で告げた。
『ところでお二人とも、お互いに何か言わなければならないのでは?』
桃と祐大はその言葉に肩を跳ね上げた。二人とも、「言わなければならないこと」が告白の事だとすぐに気付き、あまりに急な要求に戸惑ってしまった。
おろおろする二人を見て、薬師如来が意識を獲得してから二度目のため息をつき、喝を入れるための言葉を投げかけた。
『あえて悪い言い方をすれば、お二人はヘタレ過ぎます。そろそろ覚悟を決めてください』
その言葉を聞いた桃は一度息を吐くと、きっと顔を上げ祐大を見据える。
「芦原さん!」
「はい!」
「す、好きです! お付き合いしてください!」
「え……、はい! 喜んで!」
二人は目じりに涙をにじませながら手を取り合った。
「あの、仏さま」
桃は祐大の手を握ったまま薬師如来に向き直った。
「もしかして今日私たちを誘ったのって……」
『はい。お二人が中々告白されないので、少々強引な方法をとらせてもらいました。戸惑わせてしまって申し訳ありません』
「いえそんな! ちょっとびっくりはしましたけど、助かりました」
「僕からも、ありがとうございます」
桃と祐大は言うと、出口に体を向けた。
「もう行きますね。あの、仏さま」
『何ですか?』
「これからも相談しに来てもいいですか?」
『もちろん。お一人でも、お二人でも、来てください』
「はい! ではまた。行こう芦原さん」
「うん」
桃と祐大は手をつないで出口へと歩き出した。