僕は都内の公立高校に通うしがない男子高校生である。スーパーマンでもなければ陽キャでもない。いわゆる陰キャの部類に入る。
友達はいない。でも、必要ない。一人でも生きていける。それが僕の考えだ。
そんな僕は今、東京国立博物館の敷地内にいる。クラスメイトたちと一緒に。前に東京国立博物館の本館、右側には東洋館、左側には表慶館が見える入口のすぐ近く。広い敷地内を見渡せる場所だ。
「あっついね~」
女子たちが薄い上着をぱたぱたと仰ぐ。私服の女子を見ることができるなんてなかなかない。美術の授業で使えるかもしれないから、バレない程度によく見ておく。
……中を覗きたくなるのは男子高校生の性だろう。覗こうと少し背伸びしてみたが、中を見ることはかなわなかった。
女子たちの冷たい視線が僕に向けられた気がして目を逸らす。空を飛んでいくカラスを追いかけていると、僕の想い人、胡桃も空を見上げていることに気がついた。
胡桃とは芸術の選択授業で同じ授業を選択している。音楽、書道、美術の中から僕らが選んだのは美術だ。美術を選んだことに理由はなく、音痴で字が下手な僕に残されていたのは美術だけだったのである。しかし、僕の絵は上手くない。上手くないと言うか、下手だ。ノートの端にカエルの絵を描いて、隣の席の女子に「何これ、葉っぱ?」と言われたくらいには下手なのである。
胡桃は空を飛ぶ鳥や飛行機を、ぼんやりと目で追っていた。キャッキャと騒ぐ女子たちの群れから離れているのは、彼女に友達がいないわけではない。学校で友達と話しているのを見ているから、多分、誰かと話したい気分ではないのだろう。
美術の教師は変わり者だ。ナメクジのような顔をした教師は、休日になると、希望者を美術館まで連れて行く。この休日美術館鑑賞会には、暇を持て余した生徒や、美術が好きだと言う少数の変わり者が集うのだが、どうやら今回は、僕の想い人も参加するらしい。
想い人。
想いを寄せる人。
それはつまり、片思いの相手。
これを読んでいる人の中には何となく察している者もいると思うが、僕は人と話すことが苦手だ。冒頭で言ったとおり、友達もいない。
だからこの想いも、一方通行だった。
今までは。
今日、僕は変わろうと思う。
ひとり本館を見上げてぼーっとしている胡桃へと近づく。もちろん、彼女も美術選択者だ。僕が美術を選択していなければ、この出会いはなかったかもしれない。
小さな選択だが、美術を選んだ自分に感謝をする。ありがとう、あの時の僕。
そういえば、彼女が参加することをどうやって知ったのかと気になる読者もいるだろう。
難しいことではない。彼女と友達との会話が聞こえたというそれだけだ。胡桃には仲の良い友達、BSがいる。ふたりで「次の行く?」と話していたのを聞いたのだ。
胡桃が来ていないのならば、あんな得体のしれない教師と休日も会おうなんて思わない。本当にナメクジにそっくりなのだ。こう、顔がのっぺりとしている。歩いた跡がぬらぬらとしているんじゃないかってくらいナメクジに似ている。
と、ここで思ったのだが、胡桃の友達をBSと呼んでいることについて気になる読者がいるかもしれない。だから補足説明しておく。
僕は基本的に、人の名前を覚えない。関わることがないであろう人の名前を覚えたところで、意味がないからである。
だから、その人の名前を覚えると言うことは、必然的に、僕に関わることになる。
それくらい、僕は胡桃に思いを寄せているのである。
そんな胡桃に、今日、僕は告白をしようと思っている。
気持ち悪いと言わないでほしい。話したことも数回程度、事務的な連絡をしただけである。
だが、それがなんだ。
巷ではナンパとか言うものが流行っていると言うではないか。見ず知らずの他人に声をかけることの何が悪い。
当たって砕けろ。
ぼーっとしている胡桃は、空を飛ぶ鳩を目で追いかけている。
今だ。
「く、胡桃さん」
胡桃がくるりと振り向いた。
クルミのような大きな目が、丁寧に切りそろえられた前髪の下に、黄金比を完璧に守った状態で配置されている。
僕の心臓が大きく飛び跳ねる。口から心臓が出ると言うのはこのことか。
暑い、暑すぎる。これは夏のせいか否か。
「何でしょう?」
「あ、あのですね……」
声をかけることだけを考えていた僕は、ここで言葉を詰まらせた。
ダメだ。何か話さなくては。
「一緒に、回る人が、いないなら、」
心臓の音がうるさい。
「僕と、一緒に、行きましませんか?」
最後の方が変な日本語になってしまったが、伝わっているだろうか。
ああ、母国語である日本語を間違えるなんて。
穴があったらブラジルへ行きたい。
胡桃は僕の目をじっと見つめている。それが彼女の考える時の癖だと知っていても、ドキドキしない男子がどこにいるだろうか。いや、いない。
「いいですよ」
そう言った胡桃は、僕の隣りに立って。
──僕の隣りに立って?
「さあ、行きましょう」
僕の腕を取った。
──僕の腕を取った?
確かな体温が右腕に伝わって来る。
フリーズ。
すぐ隣にオナゴの体温が感じられる。
ここは、慌てるべきだ。
「え、あ、ちょっと……!」
慌てる素振りを見せようと準備していたのだが、それを披露する前に胡桃は歩き出した。
ああ神様、僕は一生分の運、奇跡、運命を、ここで全て使い果たしたのでしょうか。お教え願います。
困惑のために満足な日本語を喋れない僕を、胡桃は強引に引っ張っていく。
ああ、穴があったらブラジルへ行きたい。
※ ※ ※
私は今、清太郎さんと一緒に東洋館にいます。
鈴子が来れないと言うので、ひとりで満喫するつもりでしたが、清太郎さんが声をかけてくださったので、一緒に見て回ることにしました。
あ、でも、そういえば……
「涼しい、ですね」
話しかけられました。
一旦思考を中断し、答えなければいけません。
「涼しいですね」
相手の言葉を真似するだけでも、ちょっとしたお話はできます。
でも、清太郎さんの顔は赤くなっています。どう見ても涼しそうには見えないけれど、どうなのでしょう。
うーん……
本人が涼しいって言っているので、いいでしょう。
本人の意見を尊重すべきです。
それにしても、興味深い展示がたくさんあります。見慣れないものばかりですが、とても面白いです。よく長い間残っていました。よく頑張りました。
あ、この朝鮮の『冠』。金色に光って、とっても綺麗です。
「綺麗」
「めっちゃキラキラしてますね」
同じ意見のようです。
少し嬉しくなりました。
「この『画像石』ってやつ、かっこいいですね」
清太郎さんの指さす大きな石には、何かが彫られているようです。よく見ると、羊のようでした。
「すごい」
清太郎さんはしきりに感心しています。
でも、私は、その画像石の良さがあまりわかりません。でも、あまりわからないですと正直に言葉にしてしまえば、清太郎さんを傷つけることになってしまいかねません。
「そうですね」
私はとりあえず、頷いておきました。
上から順に回っているので、後は階段を下りていくだけです。
半分くらいまで下りてくると、清太郎さんがそわそわし始めました。
声をかけるべきでしょうか。
「あの」
迷った末に、声をかけてみました。
「おトイレ行きますか?」
「え?」
「そわそわしていたので」
「あ、だ、大丈夫ですよ」
「そうですか。行きたくなったら言ってくださいね」
「は、はい」
じっと目を見ていたら、清太郎さんはそっぽを向いてしまいました。
目を見られることは好きではなかったのかもしれません。
人の好む行為や嫌がる仕草を想像するのは、とてもむつかしいことです。
悪いことをしてしまったのでしょうか。
「あ、あの」
清太郎さんは、うつむきながら言いました。
「これ、終わったら、一緒に、モス、行きません?」
「モス、ですか?」
「駄目、ですか?」
実は、今、私はモスの気分ではありません。どちらかと言うとマックの気分です。
しかし、断るのも悪いですし……
「いいですよ」
そう答えました。
すると、うつむいていても分かるくらいに、まっ赤になってしまいました。
どうしたのでしょう。
「大丈夫ですか?」
「え?」
「顔赤いですよ?」
「だ、大丈夫です」
清太郎さんは、少し離れてしまいました。
呼吸を整えているようです。
「つ、次、行きましょう」
声が裏っ返ってしまっていますが、先を歩き始めました。
私も遅れないように、清太郎さんを追いかけます。
※ ※ ※
東洋館にいる間、僕はずっと、告白をするタイミングをうかがっていた。どのタイミングで告白しても上手くいくように脳内シミュレーションを繰り返していたら、胡桃に心配された。心配している胡桃の瞳も綺麗だよと、脳内の僕が胡桃に語り掛けるのを阻止するのに必死だった。
とても気持ち悪いと思うだろう。
大丈夫だ。僕も気持ち悪いと思っている。安心してほしい。
東洋館では告白をするタイミングがなく、僕は本館で告白をすることに決めた。
今日、僕は変わる。
変わるために、ここに来た。
「そういえば、本館で刀剣の展示をやってるみたいですよ」
日本語を上手に喋れるようになった。大丈夫だ。このままいけば上手くいく。
「え、そうなんですか?」
「刀剣、好きですか?」
「はい」
ほのかに頬を染めて、胡桃は頷く。
「綺麗で、かっこいいので」
「確かに綺麗ですよね」
「好きなんです」
心臓が取れるかと思った。
次にくる言葉を待つ。
「刀剣」
ですよね。わかっていましたとも。
たった十文字で上げて突き落とすジェットコースター・胡桃。ここで倒置法はいけないぞ。男子の気持ちを弄ぶのもいい加減にしなさい。
「行きましょう」
心の準備なんてしていなかった僕は、また腕を取られたことに心臓が暴れ始める。
「だ、だから、あの……!」
引っ張られるようにして本館へ。
──あの、胡桃さん。たくさん人いるんですよ。
と言えるはずもなく、僕は腕をひかれるがまま、足を踏み出した。
──というか、胡桃さん、力強すぎませんかね。
本館へ入ってすぐ、胡桃は刀剣に夢中になった。僕はかっこいいなと思うだけで、特に興味は持てない。そのため、ふらふらと刀剣の展示されているところをふらついている。
「へえ……これが大包平……」
胡桃は嬉しそうに刀剣を眺めている。
僕は暇を持て余し──暇を持て余した奴らが来ているのに、なぜここでも暇を持て余さなければいけないのかという疑問は、どこか遠くに置いておくことにする──、胡桃に声をかけた。
「その刀、知ってるんですか?」
「はい。ゲームやってて、それで」
きっと、あの大人気ゲームだ。
「あのゲームですか。人気ありますよね」
「やってますか?」
「いや、やってないです」
「そうですよね。女の子が好きなゲームですから」
胡桃は会話を切り上げ、また刀剣をじっくりと鑑賞し始めた。
これは、世に言うほったらかしという奴ですか。ああ、そうですか。
でも大丈夫。くるみの真剣な眼差しを見ているだけで、僕は満足です。
相手にされないのは寂しいけれど。
「あ、そろそろ次行きますか?」
気を使ったのか、胡桃が僕の目をじっと見て言った。
本当にその癖は心臓に悪い。今日だけで寿命が三年は縮まった。
「いや、まだ見たいなら見てて大丈夫ですよ」
「じゃあ、もう少しだけ」
申し訳なさそうな表情を少し残して、胡桃はまた刀剣に夢中になった。
でも、さすがにここまでほったらかしにされたら、誰でも寂しくなるだろう。
本音を言えば寂しい。
だが、楽し気な胡桃を、誰が止められるものか。
──全部見終わった。
結局、告白はできたのかと、読者の皆様は思うだろう。
あなどるなかれ。僕は男子だ。
告白など、できるわけなかろう。
あなどるなかれの使い方を大きく間違っているが、もう気にしないでほしい。告白はできなかったと言うことだ。
──ああ、出口に着いてしまう。
これですぐに告白しなければ、後がない。
緊張で気分が悪くなってきた。吐きそうだ。
「あの、大丈夫ですか?」
顔を覗き込んで胡桃は言った。目が合って、心臓が暴れ始める。
静まれ、僕の心臓……
「だ、大丈夫……」
絞り出すように言うが、胡桃の目から心配の色は消えない。
「顔、青白いですよ?」
「大丈夫じゃないです、すみません!」
ああ、なんて無様なんだ。敵前逃亡。まるで、逃げ出したみたいじゃないか。
でも吐きそう、もう無理。
「ここのベンチで待ってますね!」
胡桃が大きな木の前に置かれたベンチに座ったのが目の端に映った。
僕は腹痛に悶えながら、トイレへと全力疾走した。
※ ※ ※
清太郎さんは本館の方へと走っていってしまいました。
どうしたのでしょう。大丈夫なのでしょうか。
十分くらい空を眺めていると、清太郎さんの声が聞こえました。
「ごめんなさい」
走って戻って来たのでしょう。顔が真っ赤になっています。
「じゃあ、そろそろ帰りましょう」
そう言って私は立ち上がりました。
すると、
「胡桃さん!」
清太郎さんに名前を呼ばれました。
突然の大声に、少し驚きました。
「はい」
そう返すと、清太郎さんはもう一度、
「胡桃さん!」
と言いました。
「何でしょう?」
清太郎さんの顔が、みるみるうちに赤くなっていきます。
まるでタコのようです。
「あの、僕!」
なぜ、泣きそうになっているのでしょうか。
清太郎さんが、顔を上げました。
震える口元が、何かを言おうとしています。
その時です。
「おーい、胡桃!」
もう一人、私の名前を呼ぶ声が聞こえました。
振り返ると、遠くから手を振っている男性がいます。
あれは、浩くんです。
「あ、浩くん」
「何してんだよ、待ってろって言っただろ」
そう言いながら、浩くんはこっちへと走ってきました。
※ ※ ※
胡桃の名を呼んだのは、カタツムリみたいな顔をしたクラスメイトだった。アルファベット二文字、DTと呼んでいる男だ。
人のことを言えないだろうというのは勘弁してほしい。というか、アルファベットの並びに悪意はないのだ。たまたまDとTが彼に似合っている気がしただけだ。
悪意はない。
断じてない。
「あ、清太郎じゃん」
僕のことを何気なく呼び捨てにするな。
って、おい、さりげなく胡桃の腕を自分の腕に絡めるんじゃない。
というか、胡桃とお前はどんな関係なんだ。
「清太郎さんと一緒に回ってたの」
「え? マジで?」
おい、なぜ笑っている。
「大丈夫か、清太郎。顔赤いぞ?」
だから、なぜ笑っている。
「浩くんは?」
「あんたのこと探してたんだよ」
おい、デコピンするな。
「あ、そうだよね。鈴子の代わりに来るってこと、忘れてた」
「忘れるなよ」
おいDT、鼻の下を伸ばすな。
酷いことを言われているのに気づけよ。
「あー、どうする? もう回り終わったんだろ? 帰る?」
「うーん、帰ろうかな」
「マック行くか、マック」
「うん」
そう言って、ふたりは僕から遠ざかって行こうとした。
「ま、待て!」
ふたりが振り返った。なぜタイミングが一緒なんだ。やめろ。
「ふたりは、どういう関係、なんで……?」
動揺して、また日本語がおかしくなった。
だからDT、笑うな。
「私の彼氏ですよ」
「どうも、彼氏でーす」
言葉を失った。
いや、虚無に転がり堕ちた。
「じゃあ、帰ろっか」
「うん」
ふたりの背中が遠ざかっていく。
「あれ見た? 『冠』」
「うん。見たよ」
「綺麗だったな」
「刀剣もあったね」
「大包平だろ? かっこよかったな」
「ゲームやりたくなっちゃった」
「マックでやろうぜ」
ああ、あのふたりは相性がいいのだ。
「と言うか胡桃、清太郎に迷惑かけなかった?」
「え?」
「腕組んだりするのは俺だけにしとけって言っただろ?」
「あ、そうだった」
「お前さ、力強いの自覚しろよな」
またデコピンか。良いだろう。許してやる。
相性がいい相手と付き合うのが一番だ。僕は胡桃の幸せを願っているのだから。
──胡桃をよろしくな。カタツムリDT。
目から熱い何かが零れ落ちそうで、僕は上を見あげた。
もし僕が死んだら、画像石を作ってほしい。彼氏持ちの女を、それとは知らずに追いかけた間抜けな男として、僕を後世まで残してくれ。
と、そこまで考えたところで、それを伝える友達すらも僕にはいないことを思い出した。
畜生。
どうすりゃ友達できんだよ。
誰か教えてくれ……。
青い空を見上げながら、僕は一筋、涙を流した。
(終わり)