読書設定

文字サイズ

背景色

フォント

方向

 まだ私が初めて博物館に行ったのは、小学二、三年の頃だったと思う。
 歴史的な古美術品が好きな母に連れられて行った、東京の国立博物館。三方向にある大きな建物に、当時の私はとにかく圧倒された。楽しそうに館内を回る母の背を追いながら、普段ない非日常に私自身少しはしゃいでいたと思う。よそ見することが多くなり、気が付けば母の姿が消えていた。
 迷子になってしまったのだと、すぐに気づくことができなかった。
 広い建物内で、周りにある仏像や仮面、彫刻に怯えながら、母を呼んでいたのを覚えている。スタッフの人に助けを求めればよかったのだが、まだ幼かった私はとにかく不安と恐怖でいっぱいで、なにも考えられなかった。
 あちこち歩き回って着いたのは、日本刀の展示コーナーだった。もう歩けないくらいへとへとで、座りこんでしまった。そんな私を、人々はチラチラと見つつも声をかけてくれる人はいなかった。心細い気持ちでいっぱいだったその時。
 とんとんと、誰かが私の肩を優しく叩いた。
 見上げると、若い男の人が立っていた。十八歳くらいだろうか。艶のある黒髪と、温かい光を宿した目が、どこか鮮烈に感じた。
「せっかくの博物館なのに、そんな顔しちゃダメだよ」
 そう言って彼は私の手をそっと引っ張り立たせる。
「お母さんやお父さんは?」
 その人に問われた私は、涙目で首を振った。
「迷子?」
 私の心境を察してくれたらしい。お兄さんはすぐに近くにいたスタッフに近づき事情を説明してくれた。
 スタッフさんが慌てて走っていくのをぼーっと見つめていると、お兄さんが私をひょいっと抱き上げた。
「ほら、そんな顔しないで。すぐにお母さん来てくれるから。展示品見ながら一緒に待ってよう」
 私を抱えたまま日本刀が展示されたケースに近づいた。
 証明に当たってきらりと輝く銀の刃に、刀なんて知らなかった私は純粋に見惚れていた。
「俺、この博物館の中でも一番ここが好きなんだ。だから将来は絶対ここで働きたいって思ってるんだよ」
 ニコッと笑う彼に、つられて私も笑顔になっていた。
「じゃあ、お兄さんがその夢を叶えた時に、私またこの博物館に来るね!」
 お兄さんはぽかんとした顔だったが、すぐに笑顔になり、私の頭を撫でた。そしてまた会った時のために、お互いの名前を伝えた。
 しばらくして、お兄さんの肩ごしに、母がこちらに走ってくるのが見えた。お兄さんの腕から降りた私を、母が抱きしめる。彼に何度もお礼を言っていた。
 手を引かれ、建物を出る前に振り返る。お兄さんは、あの優しい眼差しを向けたまま言った。
「待ってるからな」

 

 いま思えば、あれが私の初恋だったのかもしれない。
 あれから数ヶ月後に、私は親の都合で引っ越すことになってしまった。結局十六歳になるまで、博物館に行くことはなかった。
 八年経った今、ようやく私は休みを利用して、一人国立博物館に向かっていた。
 八年ぶりの博物館は、あの頃と変わっている部分もあったけれど、やはり大きな建物は変わってなかった。
 私はすぐにチケットを買って、館内に入った。もうあの頃のように迷うこともない。博物館内を端から順に見て回った。迷子になっていたあの時は心に余裕なんて無く、展示物をろくに見ていなかったから、じっくり時間をかけて鑑賞した。
 館内はとにかく広くて、今の年齢でも周りきるのに時間がかかる。幼かった私が疲れ果て、迷子になるのも無理はなかった。
 最後に私は、あの日本刀が展示された思い出の場所に行くことにした。
 お兄さんと会った、思い出の場所。
 彼の名前、笹本悠。ちゃんと覚えてる。
 私はもしかしたらお兄さんがいるんじゃないかという、淡い期待を持ちながら、日本刀が展示されたエリアに入った。
 展示ケースに近寄る。あの日私を惹きつけた刀は美しいままだった。
 周囲を見回してみるが、彼らしき姿は無かった。そりゃそうかと、少しだけがっかりしつつ、もしかしたら目標通りスタッフとしてここに勤めているかもしれないと思った。近くにいたスタッフの女性に聞いてみようか。いや、いきなりそんなこと聞くのは変に思われるかもしれない。
 その時、もだもだする私の視界に見覚えのある黒髪が映った気がした。
慌てて振り向く。そこには、あの日見たのと同じ顔があった。変わらない背格好で、展示ケースの前に立っている。私は恐る恐る足を踏み出した。記憶違い、人違いかもしれないという考えが頭を過ぎる。しかしもう止められなかった。
「笹本……悠さん?」
 私の声に反応して、彼が振り返る。改めて顔を確認した瞬間、違うと感じた。年齢が、私と同い年ぐらいに見えたからだ。
「笹本悠は、俺の兄ですが」
 ああ、完全に間違いというわけではなかったらしい。どおりで顔が似ていると思った。
「あ、あの私、昔その人に助けてもらったことがあって。久しぶりにここへ来たら、似てる人がいると思って」
 我ながら恥ずかしいほど拙い説明だ。相手もはぁ……と曖昧に返事するのみだ。
「会うことができたら改めてちゃんとお礼が言いたかったんです」
 そう言った私に、申し訳ないような、悲しそうな表情を浮かべる彼に、嫌な予感がした。
「俺の兄は、二年前に亡くなったんです」
 足元から崩れるような感覚がした。

 
 弟さん曰く、宣言どおり博物館のスタッフになった悠さんは、交通事故で亡くなったらしい。今日がその命日だったらしく、弟さんはここへ思い出に浸りに来たという。兄とよく来たこの博物館に。
 頭が真っ白になる私を気の毒に思う弟さんの方が辛いだろうに、私を何度も気遣ってくれた。兄弟そろって優しい人達だ。
「そっか。昔兄さんが言ってた迷子の女の子って、あなたのことだったんですね」
 悠さんはずっと私のことを覚えてくれていたという。それだけで私の心は幾分か救われる気がした。
 弟さんにお礼を言い、別れた後。私は博物館を見上げた。彼と同じ夢を叶えたいと、気づかぬうちに思っていた。
  
                                      (終)