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 静寂――。

 

 何一つ物音のしない無機質な空間。
 耳をすませば、こぉこぉと通気口の音が気になってきて気が散る、滅入る。
 そんな空間の中、目の前に広がるは、歴史的に価値のある金属製の器や土器など。
 息が苦しくなるような、そんな圧迫感の中に一つの足音が響く。その足音は段々とこちらに近づいてきて、目の前まで来たと思ったらそこで止まった。
「お疲れさま。はい、コーヒー」
 白いシャツに、黒いズボンのシックでシンプルな格好をした女性が、ねぎらいの言葉とともにコーヒーを渡してきた。
 肩に触れるほど長く美しい黒髪を揺らして、すべてを見透かすような透明な目をしたその人の正体は、次の見張り番の予定の若月さんだった。
「ありがとうございます。あの、交代の時間はまだだったと思うんですけど……」
「あれ? 篠崎君、聞いてないの?」
 何のことだろうかと考えてみたけど、パッと思いつかないので素直に聞いてみることにする。
「あの……なんでしたっけ」
「まあ、知らなくても無理ないか……午後からの営業無くなったらしいよ」
「え! 本当ですか?」
「うん」
 先程から客足がぱったり止まっていると思っていたが、まさかそんなことになってたとは……。
 ということは、東京国立博物館が急遽、営業を中止するということ……きっと何かあったに違いない。
 だけど、そんなことがあったのに、スタッフに連絡一つもないなんてそんなことあるのだろうか。
「だから、まぁ……私、来てめっちゃ損っていうね」
「確かにそうですね」
 僕も若月さんも、同じ大学似通いながら、バイトのスタッフとしてこの国立博物館へと来ている。
 なので、こうやって社員として勤めている人たちには連絡が入って、僕たちみたいな雇われには必要ないと判断されたのだろう。
 Q.E.D 証明完了っと。
「そういえば、この前試験ありましたよね。結果どうでしたか?」
「あー、あんまり自慢できない結果だった、かな」
「あれ、珍しいですね」
 若月さんは三年生で、僕より一つ上の学年だ。同じクラスから聞いた話では、一年二年と学年トップの成績で、就職も苦労しないだろうと噂していた。
「ちょっとやりたいことができて、そっちに力入れすぎちゃったかも」
「それなんですか、気になります!」
 それを聞いて、一瞬視線を上にあげ逡巡したかと思ったら、直後に蠱惑的な笑みを浮かべた。
「な・い・しょ♪」
「まぁ、そうですよね。知ってました」
 若月さんは、自分の情報を頑なに言わない。それは昔かららしくて、友人や後輩、ひいては家族にまで言わないらしい。
 そんな秘密主義が相まって、学科内では麗々とした謎多き美女という印象が囁かれている。
 だけど、それは校内での印象であって、僕の思っている印象とは違うものだった。
「……一つだけ」
「え?」
 突然すぎて聞き逃してしまった。
「一つだけ教えてあげる」
「……お、教えてください。」
 周りの空気が突然変わり、ピリッと緊張が走る。急に二人とも黙ったものだから、再びこぉこぉと通気口の音に意識を持ってかれる。
 一瞬間あって、目の前の薄い桜色に染まった唇が開いたところで横入りする声が僕らを邪魔した。
「おい! あんたら、今日はもう閉館にするらしいぞ! ……良かったな!」
 その声のする方を見れば、警備員の格好をしたおじさんが入口に立っていた。
 どうやら今日は本当に閉めるらしいのだけれど……おじさんは帰れないのかな、と思ってしまって何だか申し訳ない気持ちになった。
 そして、僕はその警備員さんに向かって了解の旨を伝える。
「分かりました! 今、出ます!」
 そう言うと、警備員の人はすぐに小走りで出ていってしまった。たぶん、閉館ってことを知らせて回ってるんだろう。
 お疲れ様です、と、心の中で名前も知らぬ警備員さんに向かって、労いの会釈をした。
「……それじゃあ僕たちも行きましょうか」
「そうね。そうしましょ」
 そう言った若月さんの顔は、こみ上げてくる笑いを必死に抑えたような顔をして、ぷるぷる震えていた。
「若月さん? どうかしたんですか?」
「ごめんごめん、思い出し笑いしちゃった」
 それを聞いて、やっぱり僕は校内で噂される若月さんの印象とは違うよな、と再確認するのであった。
 そうして僕らはお客さんの誰もいない、ひどく物静かなこのフロアを後にした。

 外に出ると、社員さんや警備員さん,博物館内ショップの店員さんまでもが、ぞろぞろと博物館から出ていくのが見える。
「こんな事って今までありました?」
「うーん、私がここで働いている間に、こんなことは一度もなかったかな」
 どうやらこんなことになるのは稀らしい。
 僕たちはその人たちの波に流されるまま移動して、近くのスタバへと流れ着いた。
 そうは言っても、帰りにスタバに寄ることは日常茶飯事なので、流れ着いた、だなんて大げさに言ったが、それ自体はいつものことだった。
 僕たちは店の外までできている行列に並ぶ。
「若月さん、何飲みます?」
「んー、私ホットコーヒーでいいや」
「いいですね!」
「篠崎君は?」
「僕は……抹茶クリームフラペチーノですかね」
「おぉ、無難だねぇ」
 そうかなぁと思ったけど、ここは黙っておく。
 会計を済ませて商品を受け取り、適当に開いている席へと座った。
 席についてからは、最近あったことなどの雑談に興じていた。そこで、ふと、さっき途中で聞き逃したことを、再度聞いてみようと思った。
「ところであの、さっき言いかけたことって、何だったんですか?」
「……気になる?」
「……はい」
 さっきと違って、今度はすぐに返事を聞けた。
「内緒!」
「しょんなー!」
「なにそれ、っふふ」
 あまりの裏切りに思わず噛んでしまった。が、しかしそれで若月さんの笑顔が見れたならプラマイゼロだ。
 それから僕たちは、駅まで一緒に行った後に別れてそれぞれの帰路に着いた。

 ……僕が、その日に博物館で大量の窃盗があったことを知るのは、翌日のことであった。僕は若月さんへの連絡手段を持っていないので、次に若月さんに会ったらそのことについて話そうと思った。
 そして、次に若月さんのことについて知ったのは、クラスの人たちが話していた、「若月さんが海外留学に行った」という噂話であった。