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 気になる男がいる。
 ここ、東京国立博物館に勤める森脇には密かな楽しみがあった。
 展示物を真剣に眺める学生、懐かし気に目を輝かせる老人。博物館に来る者は何かしらの興味を持って門をくぐる。
 来館者に展示物の説明をするのは嫌いじゃない。寧ろ好きな方だ。だがここ最近になってある客が来るようになった。
 その客は車椅子に乗り、いつも同じ展示物の前で止まる。そのまま小一時間くらい眺めたあと、ひっそりと帰っていくのだ。
 整った目元にシュッとした鼻筋をしていて、色男という印象が強い。他の学芸員の間では休憩の話題にされるなど、中々の有名人だった。
 森脇が気になったのは、展示物を何とも悲しげに見つめる瞳だった。今にも消えてしまいそうなほどの雰囲気を持つ男。そんな来館者など、この博物館にはいないと思っていた。
 初めて男を見た時、森脇は胸の内が高まる熱いものを感じた。衝撃にも近いそれは、日に日に森脇の胸を満たしていく。
 そして今日もあの男は来ていた。車椅子に腰をかけ、展示物を静かに見つめている。どうやら森脇の存在には気づいていないようだ。
 森脇は隣の展示物の前に立つ。気づかれないよう、視線を横にずらせば男の顔が見えた。
(あぁ……)
 どうしてそんな目で見ているのだろうか。国が残した宝を、人が残した財産を、何の希望もなく見つめている。どこにも希望などないと、まるでその作品に訴えかけているようだ。
 森脇は左に詰める。すると男が気づいた。視線をやられ、森脇は軽く会釈した。
「どうも」
「……」
 男は何も言わず、再び展示物に目をやる。どうやら睨まれたようだ。
「いつもこの絵を見ていますよね」
 返事はない。森脇は男が見ていた展示物に目をやった。
 花鳥図と呼ばれる暁斎画。雉に巻きついた蛇が、樹上の鷹と睨みあい、その周りには色とりどりの花が描かれている。華やかな雰囲気とひっそりとした迫力が佇んでいた。
「この絵がどうかなさいましたか?」
 男は口を閉ざしていたが、森脇は決して視線をそらさない。にこやかに笑い、時には首を曲げたりと反応を見る。そうしていく内に、男の目元が僅かに動いた。
「死んだ恋人と最後に見た」
 低く、落ち着いた声。何もなかった水面に波紋が広がった感じだ。
 ポストに手紙が投函された時のような感覚が森脇の中で起こる。あぁ、と息が漏れそうになったのを必死で抑えた。
「それは、失礼しました……」
 深々と礼をする森脇。その顔には笑みが浮かんでいた。
 美しい。亡き思い人を忘れない心も、毎日通う健気な姿も。博物館では決して会えぬ存在が、いま目の前にいる。
 森脇にとって、それは初めての感情だった。何もかもを自分のものにしてしまいたい。この男の全てを。
 気づくと森脇は男に手を伸ばしていた。
「おい」
 が、その男に止められて我に返る。今の自分は館長の森脇だ。私情を挟んではいけない。
 しかし手のやり場に困り、森脇はそれらしい言い訳を述べた。
「すみません。車輪に何か絡まっているようでしたので……。よろしければお取りいたしましょうか」
 ずるい言い訳だ。座っている男では車輪を確認できない。予想通り男は眉をひそめたが、最後には黙って視線を前に向けた。
「失礼します」
 車輪に手を伸ばし、膝を曲げる。それらしい動作をして立とうとするも、男の顔があまりにも近く、森脇はそのまま固まった。
「取れたのか」
 男が訊くも返事はない。それに苛立った男が車輪の方を向いた時、森脇と目が合った。
 吸い込まれそうな真っ黒な瞳が、こんな近くになる。何も映していないまっさらな瞳。森脇はそこに自分が写るのを確かに見た。
「?」
 何も分かっていない男は首を傾げる。心臓が跳ね上がり、そして息が荒くなる。
 気づくと森脇は男と唇を重ねていた。激しく抵抗する男の腕を押さえ、淫らな粘音を奏でる。逃がすまいと、森脇はむさぼるように接吻を続けた。
 強引に舌を入れ、ねっとりと歯を撫でればつるりと滑っていく。男の口端から生温かい唾液が垂れた。
「……ッ」
 不意に男の抵抗が弱まる。それが酸欠のせいだと分かり、ようやく森脇は口を離した。細い粘糸が垂れ、森脇は唇を親指で拭った。
「才能ありそうですね。あなた」
 瞬間、頬に重い鈍痛が走った。殴られたと分かり、森脇は床に尻をつく。それを見ていた他の来館者が小さな悲鳴を上げた。
「くたばれ」
 男は車椅子を器用に動かし行ってしまう。
「館長、いったい、何が──」
 騒ぎに駆けつけた学芸員が男を見つける。
「通報を」
「いいから」
 追いかけようとする学芸員を森脇は止めた。腫れた頬を押さえる姿を見て、学芸員は更に眉をひそめた。
「来館者が減ってしまうだろ?」
 森脇はそう言い、ふらつく脚で立ち上がる。脳が揺れたせいで視界が安定しないが、あの男はもういなかった。
「ねぇ、きみ。入口のスロープ、もう少しなだらかに出来ないかな。一人でも上がりやすいように」
 学芸員が返答に困っていたようなので、森脇は「なんでもない」と話を切った。
「いいなぁ」
 身体も心も全て欲しい。自分の快楽に溺れるあの男をこの目で見たい。
 森脇は手で覆っていた口元を歪ませた。