母さんのうるさい声が耳に入る。
「厚! ほら、降りて早く荷物を運ぶの手伝いなさいよ」
そう言って車の中でスマホをいじっていた僕を外へ出す。お盆帰りでやってきた母方の祖母の家の前に、車は停められていた。
「はいはい」
半ば強引に下ろされた後、「はいこれね」と一泊二日分の荷物を持たされた。持っていたスマホはズボンの後ろポケットに入れた。重いと感じながらもしっかりとした足取りで広い玄関前まで行く。そして引き戸を開け、一段上がっている床に思い切り荷物を置いた。
じりじりと蒸し暑さがこの玄関内にも入ってくる。
「暑いなぁ」
ふと視線を荷物の端に向けた。隅には縫い付けられたネームプレート、「前田 厚」とあった。もう高校二年となった僕としては、なんだか幼稚に感じて恥ずかしい。今度ひっそりと剥がそうかな。
「ほら、玄関で止まらないで奥まで行ってなさいよ。邪魔よ邪魔」
後ろから声がかかる。母親というのは落ち着きがないものなのか?
「せっかちだな、落ち着きなよ」
「何か言った?」
「何でもないです」
これ以上何か会話しようとすると負けそうな気がしたので、一段高い床を踏みしめ、左右に続く廊下と玄関からまっすぐ続く直線の廊下の方を見る。
「確か」
独り言をつぶやきながらさっさと荷物を持って右の廊下を渡った。確か、この先の分かれ道にある左の障子張りの部屋がいつも泊まっている部屋だったよな。そう思いだし障子を開けたタイミングでまた声がかかる。
「早くおばあちゃんに顔を見せに行きなさい」
今ちょうど荷物置くところなのですが? 急かし過ぎじゃないか? 沸々と湧き上がる怒りを抑え、とりあえず了承の返事をした。
中へ入り部屋の隅に荷物を今度こそ置いて、腰に手を当てゆっくりと一息ついた。
「さて、中央の直線の廊下に続く茶の間に行くか」
そう口にこぼし、急ぎ足で茶の間に向かった。
先に見えた人影は、ふんわりとした白髪で、背中が少し曲がっていた。
「おばあちゃん、お邪魔します」
挨拶をすると優しい声色で返事された。
「おやまぁ、厚ちゃん、いらっしゃい。暑かったでしょう。どれ、麦茶を入れてあげようかね」
この目じりが下がった人のよさそうな人相のこの人は、僕のおばあちゃんである。おばあちゃんは四人分くらいのちゃぶ台に、緑茶を持っていた。そして机の上にあった水滴のついていた麦茶のポットを手に取った。口元が逆さになっていたガラスのコップをひっくり返し、気持ちのいい音を立てながら注いでくれた。
「おばあちゃん、ありがと」
おばあちゃんに注いでもらっている間に僕はおばあちゃんの向かいの席に座ろうと移動した。腰を下ろそうとするとまたもや茶の間に入ってきた母のキツイ発言が飛んできた。
「これ! 仏壇でおじいちゃんにお参りしてから座んな!」
そうだった。もう一度立ち上がり、この部屋に隣接している畳の部屋に移動した。床にあった座布団に座り、遺影のおじいちゃんを見てから目を瞑り手を合わせた。
向こうの部屋から母の小言が飛んでくる。気が散るな。
「まったくあの子ったら、お盆だというのに家にいるーって言ってたのよ。まぁ無理やり連れ帰ってきたけど」
「おやそうなのかい。厚ちゃんの好きにさせてあげてよかったのに」
「お母さんは甘いわぁ。そういえば夫も仕事が抜けられなくて来ないってさ。厚の薄情さはあの男譲りかしら」
散々な言われようだな。僕は心でおじいちゃんに挨拶をし、立ち上がってさっき座り損ねた席にやっと着いた。そして右手で机の上に差し出されていた麦茶のコップを持つ。口につけてはそのまま飲み干した。ああ、喉が潤ってる。
おばあちゃんは母さんと楽しそうに会話していた。うーん、今の時間帯は面白い番組ないし、テレビ見てもつまらないな。そう思ってスマホをポケットから取り出すと、
「厚、アンタ来て早々スマホをいじるんじゃないよ。せっかくおばあちゃんと会ったんだからおしゃべりしなさいよ」
ホント何なんだこの人。でも、確かに目の前で孫がスマホに夢中になってたらいやかも。
「ごめん、おばあちゃん」
「いいのいいの。小夜はキリキリし過ぎよ。もっとゆったりしてなさいな」
「もう、お母さん」
母さんを抑えられるのはおばあちゃんだけだな。
それから数分くらいはおばあちゃんとおしゃべりしていたが、途中母さんが突然「あっ」と言って立ち上がった。
「今日はわたしがご飯作ってあげたかったんだった! 今から準備するから、お母さんはゆっくりしててよね」
「おやそういうのいいのに」
「親孝行させて」
母さんは僕に顔を向けた。
「で、あんたはどうする? 私の手伝いすんの? なんかこっちで用事ある? まぁないなら手伝いをさせるけど」
それ、結局選択肢が実質ひとつしかないのでは。
「あー」
迷っているとさっきおばあちゃんが紹介していたチラシが机の上にあったのを思い出す。チラシを一瞬見て考える。確か今近くにある東京国立博物館がどうのこうのしたというお知らせだったな。何か開催されてるんだっけか。
「ここ、行ってくる」
チラシを指さし言う。本当はそういうの興味ないけど手伝いはだるいし、サボりたい。案の定、母さんは怪訝そうな顔をしたけど、すぐに「分かった」と言って台所へ行ってしまった。台所はこの部屋から少し遠いし、これで自由だ。母さんの姿が見えなくなったのを確認してはスマホを取り出した。もうそろそろいじっててもいいだろ。そう思い再び後ろポケットからスマホを取り出そうとすると、おばあちゃんに言われてしまった。
「行かないのかい?」
「あー、うん」
「なら、そうだねぇ。おばあちゃんが小さいときにあった戦争の話でもしようかね?」
あ。また来たよ。毎年お盆になるとおばあちゃんは何かと戦争の話をしたがる。もちろん戦争はいけないと分かっている。でも実感はわかないし心に響くこともない。さすがに聞き飽きてきたためすぐにこう言った。
「あー、やっぱり行ってくるよ」
仕方ない、行こう。
汗ばむ自分の身体にうんざりしながらも東京国立博物館に着いた。中へ入るといくつか建物が分かれていた。近くの案内板を見る。
「なになに。平成館と本館、そして東洋間とかか。うーん、面倒くさいから一番近い本館に行ってみよ」
本館は日本ギャラリーと書かれていて、まだ見る気になれそうだなと思った。他のは外国の歴史だとか、日本の昔の資料だとか、興味が全くわかないものだったのもあり、本館に入り込んだ。
中はいくつかコーナーごとにエリアがあって、最初は日本の仏像が左右に並べられていた。やや古めかしい雰囲気が僕をげんなりさせた。うわぁ、塗料がはがれている物を見るの苦手なんだよな。さっさと次のエリア行こう。そう思い速足で過ぎ去って次のエリアに踏み込むと今度は食器のような展示だった。うん、パスだ! 次!
次のエリアへ行くと、どうやら刀の展示だった。一番目に入ったのは、何やらきちんと並んでから見る刀だった。なに、あの刀は有名だからこういうシステムにしてるの? とりあえず数人すでに並んでいた列に加わり、待ってみた。
数分してやっと僕の出番になり、ガラスケースに展示されていた刀を見る。つやがあり、光で反射していた。鉄、だな。やばいな、そういう感想しか出ないや。下に書かれていた説明欄には、「太刀 古備前包平 名物 大包平」とあった。え、刀に名前みたいなのがある!? え、刀って名前が付けられてるの? ただの物だと思うのに。ええ? 説明の続きを見ると、「現存作刀中一等の刀剣と称されている」とあった。えーとつまりはものすごくすごいということか? だからこの刀だけ列の指定があるんだな。
びっくりしつつもまだ七つくらい他に刀があったのでそちらも見ていった。「堀川国安」、「水心子正秀」などなど。僕にはどれも同じにしか見えない。そう思うとやっぱりこなきゃよかったかと後悔した。しかし、とある刀の展示に二十歳くらいの女性が熱心に見つめていたのを見つけた。おお、あの人ものすごく熱心だな。何がそんなにいいのか。
「意味が分からない」
「え?」
あ、口に出てた!?
「いえ、すみません。はは」
お辞儀をして去ろう。そう足を動かそうとしたが彼女に止められた。
「ふふ、あなた、こういうの興味なさそうね」
「いやぁ、はは。僕歴史とか苦手で。失礼ながら過去の話を聞いて何になるのと思ってしまって」
反感を買う気がして身構えた。
「あはは、確かに苦手な人は苦手だろうね、こういうの」
意外と受け入れられたことに驚いていると、
「私が見ていたこの刀ね、『厚藤四郎』っていうのよ」
と熱心に見ていたものを説明してくれた。偶然にも自分と同じ名前につい反応してしまった。
「厚、ですか。本当に人間みたいな名前が付けられてるんですね」
「ああ、名前ね。刀を打った人の名前とか、その地域にちなんで、とかそういうのからつけられてるのよ」
ふとした発言に詳細な説明をするあたり、詳しいのだろうと察する。
「詳しいのですね。羨ましいです。僕、歴史って長いからどこから入ればいいのかわからないのもあって頭に入らないんですよ」
「ありがとう。そうなのね。私は歴史というよりはこの刀たち専門の知識くらいしかないわよ。刀へ、人間の人生みたいでこう言っては何だけれど、面白い小説のように感じるの」
「小説?」
「そう、小説。あなたが言うように、歴史は今も続いてる。終わりのない物語みたいなものよね。だから知るのに時間がかかるし途中で飽きちゃうのだと思うの。だけれど、一冊の小説くらいの量の、歴史だったら、単なる物語として純粋に楽しめるんじゃないかしら」
そう言われてどうして自分が歴史が苦手なのか腑に落ちた。すごいなこの女性。
「ひとつでいいんだよ。全部知ろうとしなくても、いつの間にか心に刻み込まれているものだよ」
その発言が、なぜか心を揺さぶられた気がした。
「この厚藤四郎という刀もね、そうね。分かりやすく言うと、この刀のおかげで刀の魅力が理解できていなかった人たちの考えが変わったという話があるの。その人たちは危険なものだとかいらないものだとか言ってたくさんの刀を燃やしたり海に捨てたりしてたのよ。それでまた捨てられそうになっていた刀たちを、日本の一部の方々が『厚藤四郎』を使って説得したと言われてるわ。まぁまとめると英雄ってことかしらね」
急に饒舌に説明されて、いつもならうんちくが始まると思って逃げていた。しかし彼女の語り方は、本当に小説のように、分かりやすくて聞き入ってしまった。
「そう、何ですか。面白いですね」
これは、本心だった。始めて歴史を知って面白いと、心が躍る感覚がした。
「いえ、こちらこそ急に語ってごめんなさいね。では」
「こちらもありがとうございました」
彼女とは、そこであっさりと分かれた。
あれからおばあちゃん家に帰ってからも、彼女に教えられた歴史の楽しみが心に残っていた。茶の間でくつろいでいると畳の部屋の方に座っていたおばあちゃんが言う。
「お盆に毎回帰ってきてくれてありがとうね。おじいちゃんも喜んでるさ。……ああ、おじいちゃんといえば戦争が昔あってね」
つい条件反射でこう答えた
「いやぁ、おばあちゃん。僕それ、もう何回も聞いたよ」
顔を見ずに、背中越しでそういつもの断り文句を並べる。
「そうだったかい? そりゃあ悪かったねぇ」
おばあちゃんは優しい声色でそう言い、緑茶を飲んだのか飲む音が聞こえてきた。
「……」
数秒間だけ、僕は黙った。それは彼女の言葉が頭に浮かんでいたからである。
『ひとつでいいんだよ。全部知ろうとしなくても、いつの間にか心に刻み込まれているものだよ』
今朝は、いつもの話かと思って適当に逃げてしまったけれど。今なら、今なら何か心に響くものがあるかもしれない。きちんと、その重みを感じられるかもしれない。そう思うと僕は飲んでいたコップを机に置いた。そして後ろの畳の部屋へ身体を向け、座布団に座っていたおばあちゃんの顔を見つめた。
おばあちゃんは、ほんの少し変わった僕に気付いているのか否か、それは分からない。だけれども、変わらないいつもの優しい笑みを浮かべ、あの話をまた切り出してくれた。
「あの日はね……」
カラリ、と後ろから氷の溶ける音がした。