最上の快楽を教えよう。日本一だとのたまう東大に受かり、講義を端から端までサボるのだ。伝統ある赤門を近所のコンビニのように潜り抜け、数十年の研究の結果成し遂げた偉業を背負いし教授たちと餓鬼のような鬼ごっこをするのだ。特に、近くの東京国立博物館にいくと、よりいい。『学校をサボって博物館へ行く』だなんて啓蒙高いように見えるのがさらに背徳を加速させるからだ。
ということを、生真面目星出身、勉強育ちの僕に教えたのは、亜紀町先輩だった。肩まで伸ばした髪、線が細く、中性的な体つき――日を知らないような真っ白な肌。一言で言ってしまえば、性別が分からないないお人。いや、人間かどうかも怪しかった。亜紀町先輩がダミーサークル勧誘のチラシに、暗号を書いており、それを僕が解いたのが出会うきっかけだった。
そんな、ミステリアスで、どこか冒涜的な先輩から、背徳的なことを教わったのだから、勉強しかしてこなかった僕の色はまんまとそちらに染まってしまった。染色体、僕は染められる側の人間だった。
昼の一時に、正門前の小さな石畳のスペースで待ち合わせると、
「新垣君」
と悪い表情で亜紀町先輩は僕を呼んだ。いつも白いシャツと黒いズボンを着ている。まるで就活をちゃんとやっているように見えるだろう? とのことだった。らしいな。と思う。僕はベルトもネクタイも、嫌いだったのでいつも緩い恰好だった。
「周りからは、これがデートだと思われているらしい。非常に愉快だね」
毎度そんなことを言ってくる。僕は僕で悪い笑顔を浮かべてしまう。結局のところ、どれだけ賢い連中でも、恋愛脳という小学生のような価値観からは抜け出せていないのだ。高尚な快楽の共有など、知る余地もないのだろう。彼らの脳みそには動物的な本能と、建前だけの学力が詰まっている。そんなもの、肉の塊にすぎない。
どちらというわけでもなく手をつなぎ――その手や指の細さに毎度毎度命が軽いなあと思いつつ――雑念を振り払うようにゲートをくぐると、すぐにゲート横の自動販売機へと小銭を入れる。
僕のしょぼいバイト代と、亜紀町先輩のいかがわしいバイト代を、生活費ぬいて余った分、全部つぎ込む。バックパックいっぱいになるまでペットボトルやら缶やらを詰め込むと、その重さに苦笑いを浮かべつつ、東洋館へと入る。光度の低い室内に、亜紀町先輩の瞳に宿る紫色が濃くなっていくのが、毎度隠れた楽しみだった。
展示された大小さまざまな仏像をすり抜け、僕らはエジプトの展示が見えるソファーへと腰を下ろす。するとまた、指が絡まる。冷えた飲料水を触ったから冷たい指と指は、同じ温度なのかその冷たさに驚くことはない。
静寂が暗がりをぬるく撫でてゆき、どこを見るというわけでもなく、何ということを考えるでもなく、時間の針がひたすらせっせと進んでいくのを感じる。
僕はただひたすらに時間を潰す。潰す、だなんて非常に力を感じるが、多分、人間がこの世で一番ボコボコにしているのは時間であることは間違いないので、僕もまた、人間なのだろう。だんだんと、現実とそうでない所の境目がゆがんでいく。
そして不思議なことに、ペットボトルの中身はそうしている間に、減っていく。キャップが閉まったままで、だ。
中身はどこに行ったのだろう。と頭の隙間に流れる思考は、
「木乃伊(ミイラ)が、飲んでいるんだよ」
そんな亜紀町先輩の言葉に遮断される。とても冷たいのに、どこか熱っぽさをその言葉から感じてしまう。
照明の光がゆがみ、亜紀町先輩の雪のような肌が、吸い込まれるような影を浮かべていく。絡まった指から、僕の方へと影が伸びてくるように感じる。凍った鱗を持つ蛇のようで、その牙の幻視を振りほどくには、僕は満足のいく返答するほかなかった。
「炭酸は、乾いた喉に喉に合いますからね」
亜紀町先輩はそれを聞いて、ケラケラと笑う。蛇もまた、くねくねと腕に身体をこすりつける。そんな騒がしさも、空気に張りつめる見えない糸の中に紛れ込んでいってしまい、憶えることができない。
いつだって刹那的な存在なのだ。亜紀町先輩は。あるいは、僕がそう彼女を捉えている。
笑い終わった亜紀町先輩は、空になったペットボトルをゆっくりと潰すと、口を開く。
「ねえ、新垣君、最上の快楽については、教えてあげたよね?」
僕は頷きを返す。伸びる蛇は喉をぐるりと回ると、頬から右耳へと迫ってくる。
「なら、最悪の苦痛については、見当つくかい?」
耳たぶに冷たく固いものが当たる。その毒は、僕の場酔いをひどくさせる。
亜紀町先輩の紫色の瞳が、少し離れた木乃伊を捉えている。
囲っているショーウィンドウの表面を、こまごまとした説明文が、流れているようだった。
今を生きる僕たちにとって、昔あった出来事の証拠は、何よりも安心できるものだ。多分それは、今を生きている僕たちがいたという証拠が、未来に残るかもしれないという可能性からだ。自己保存の欲求、自己承認の欲求、最上とはいかないまでも、快楽の一つが約束されているのが大きいのだろう。だとしたら、最悪の苦痛は僕には関係のない所にある。しかし、亜紀町先輩だけは、そうではないかもしれない。
いずれ亜紀町先輩のこういう面を、僕は語り継ぐのだろうか。それとも……
最後のペットボトルが空になっても、僕は問いに答えなかった。蛇が僕の耳に穴を空けた。
(了)