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テーマ「葬儀」
『甘い体温、二人』著:中林晏奈
 
 小学校四年生の頃は、好きすぎて胸が苦しくなって泣きだすことはしょっちゅうだった。そのたびに千尋は困った顔をして、肩ではねた真っ直ぐの髪をやさしくさらって頭を撫でてくれた。そのまましばらくすると彼はわたしの髪を撫でるのをやめて、胸まで伸びたすこし癖のある彼自身の黒髪を、器用な手つきでひとつにまとめていく。わたしはいつも、ぽろぽろと涙をこぼしながら膝の上に座って、黙ってそれを見守っていた。女神さまみたいにとっても綺麗でかっこいい養父がするその仕草は、誰でも日常的にする当たり前の仕草なのにどこか現実離れをした儀式のように感じた。それからようやく、花束をそっと抱くように柔らかく抱きしめられる。千尋の匂いは華やかだけど透き通った白ブドウの甘さがして、洋服ごしの体温はいつだってじっとりと熱かった。それまでずっと泣いていたのに、千尋に包まれるとピタリと泣き止むのは自分でも不思議だった。千尋がいなければわたしの涙は止まることはない。わたしをやさしく包む千尋は、いつだって、おかあさんのようなあたたかさとおとうさんのようなやさしさがあった。
 太陽の光が当たると銀光りする古めかしいけれど手入れが行き届いた台所で千尋が朝ごはんの支度をしているとき、小学校から帰ってきて「ただいまぁ」って玄関の横開きの扉をガラガラと音をたてて開けると「おかえりぃ」って千尋が出迎えてくれるとき、眠る前にお布団の中で千尋のぽにょぽにょしたお腹に抱きつくとき、わたしは子どもっぽい甘えた声で、こんなにも人のことを好きになることがこの先あるのかなぁって聞いちゃうくらい千尋のことが大好きだった。
 するときまって養父は口の端をにやりと上げてから、わたしの頭をぐしゃぐしゃに撫でて抱っこをしてくれる。それからおでことおでこをくっつけて、お花が咲いたようにふんわり笑って、耳元に顔を近づける。吐息があたってくすぐったかった。
「僕よりカッコイイ人はそうそういないけど、僕が認めるカッコイイ人はほんの少しだけならいるから、きっといつか美美子(みみこ)も僕のことを好きになったように、僕以外の人のことを想うようになるときがくるよ。だから安心して、いまは僕だけをすっごく好きでいなよ。ね?」
 こうやってからかうような甘い声で言い聞かせるのだから、千尋っていう大人はずっとズルい大人だった。お父さんとお母さんの葬式ではじめて会ったときから大好きで、あのときからいつだってそばにいてくれた千尋が大好きだった。だけど千尋もしんじゃった。
 いまと同じ少し肌寒いけれど動くと汗をかく十一月。五時間目の体育の授業で満塁ホームランを打ったそのとき、音楽の先生がランドセルを持って、わたしを校庭から連れだした。口元を抑えながらぽろぽろ涙をこぼす先生に連れられて校門へ行くと、家の裏に住む昭三さんが軽トラックで迎えにきていた。昭三(しょうぞう)さんは畑仕事着のつなぎのままで、あちこち土っぽくて少し汗臭かった。いつもおどけてみせる顔は硬い表情で、こちらをじっと見つめると、わたしはランドセルと一緒に助手席に放り入れられて、いつのまにか家に帰っていた。
 隣の家の令子おばさんに黒い服を着させられ、白い布を被せられて居間の畳に横たわる千尋の傍に座らされる。いつも千尋とよくしてもらっていた、近所のおじさんやおばさんが次々にやってきて、静かに眠る千尋を見てみんな泣いて、傍にちょこんと座るわたしをみて、さらに泣いた。力強く抱きしめられて、みーちゃんがあんまりだっていって泣いていた。土埃の匂いと煙草の匂いが混ざったヤな匂いがした。白ブドウの甘い匂いは千尋からしかしなかった。
 すっかり日が落ちる頃には、集落の人はみんな家に顔を出して千尋の顔とわたしの顔を見比べて嘆いていた。わたしは一つも泣かなかった。千尋がしんだって、大人や友達、学校の先生に可哀そうだって言われても、何が起きているのか、さっぱりわからなかった。わたしは隣で横たわる千尋を見てもこころが動かなかった。
 夜八時がすぎて、出前をとってくるね、と令子さんと昭三さんが居間からでていった。小さな声で話しているけれど、わたしをどうするか、わたしを誰が育てていくのかについて話しているんだと、想像がつく。前もそうだったから。大人が故人と子どもを置いて、ひっそりと出ていくときは大抵大人の事情の話をする。前は千尋がずっとそばにいて手を握ってくれていた。千尋だけだった。あのときは千尋だけがわたしの味方だった。あのときから、わたしと千尋のふたりぼっちの世界は始まったのだった。
 布をよけて義父の顔を見ると化粧をしているせいか、いつもよりも眉毛がきりりとしていて、艶々の肌はファンデーションを重ねられて絹豆腐のようにつるりとしていた。居間は千尋の好きだった白い百合の花と冬桜の枝で彩られていたから、なんだか千尋が、目を覚ますのをみんなが待ち望んでいる春の女神さまみたいに見えた。もうしんじゃっているのに、益々綺麗でカッコ良かった。
 時間が経つほどきつくなっていく百合の香りにわたしは顔をしかめていたけれど、眠るときみたいに身体を千尋に近づけて横になれば、畳の匂いと共にいつもと同じ白ブドウの甘くて透き通ったいい匂いがした。だけどじっとりした体温だけは感じられなくて、わたしは千尋に触ることができないまま、胸の前で組まれたいつも抱きしめてくれるたくましい腕をただぼぅっと見つめていた。
 どうして千尋はしんじゃったの、とわたしがもう喋らない千尋に話しかけようとした瞬間、ぶぉぉんという、大きなエンジン音が家の外から聞こえてきて、そのあとバタバタと走る音がした。「光彦くん!」みつひこ? 誰。令子おばさんの悲鳴にも近い甲高い声が聞こえて、「今更どの面さげで来たん! けぇれ(帰れ)!」という昭三さんの低い怒鳴り声が響いた。大きな嫌な声で、わたしと千尋がふたりぼっちで築いてきた小さくてやさしい世界がガラスをたたき割ったようにひびが割れて、無感情に壊されていくようだった。もうやめて、誰も来なくていい。わたしは千尋の腕にしがみつけなくて、自分自身をきつく抱きしめて小さく丸くなった。
「ちぃ」
 乾いているけれど甘くてやわらかい、か細い声がした。顔をあげて声がした居間の入り口の方を向くと、ネクタイは首からぶら下げ、ボタンは綺麗に留められていない酷く不格好にスーツを着た、とても綺麗な顔、だけど血の気を感じさせない真っ青の顔をしたぼさぼさ髪の男の人が亡霊のようにぬらりと立っていた。手には少ししおれた薔薇の大きな花束を持っていて、それを足元に落とすと一歩一歩、足を引きずるようにして千尋に近づいてきた。その人はわたしと反対側にひざを折って座って、しばし呆然と千尋の顔を見ていたけれど、いつのまにか震える手で千尋の綺麗な髪を撫でて指で玩んでいた。そして両手で静かに眠っている綺麗な人の頬を包むとほほ笑みながら、涙を静かに流していた。わたしはその仕草のすべてが綺麗で、もう感じられないやさしくてやわらかいあたたかさに満ちた仕草を見て、「千尋」と涙に濡れた声で思わず呟いてしまった。
 男の人ははっとした表情をして、ゆらりと立ち上がってこちらにまわり込み、涙をぽろぽろ流すわたしのそばにしゃがみ込んだ。目の前にいるのに存在していないように綺麗な顔をした男の人はわたしと同じようにぽろぽろ涙をこぼして、鼻水まで垂れていた。だけどやっぱり、その人は優しくてやわらかいあたたかさがあって、わたしは涙がどんどん溢れてきて「うぇっうぇっ」と泣いた。男の人は困ったように眉を下げて、鼻水を手の甲で拭ってからわたしをそうっと抱きしめて頭を撫でてくれた。鼻水がついた手で汚いなって、千尋だったらそんな風にはしないのにって思って、嫌だった。でも、林檎のような甘くて透き通った華やかな匂いと、かすかに体温のあたたかさを感じて、わたしは声を上げてもっと泣いて、千尋がしんじゃったことを認めた。

(了)