描写技術
テーマ「猫が登場する描写」
『黒猫のゆく先は』著:菊川詩月
母の死の真相を探り始めて、もう半年が経とうとしていた。未だに何も、真相に辿り着きそうな情報は得られていない。由香里はこの状況に焦りを感じていた。
(このままじゃ、私は利用されるだけになる……)
だが、由香里は焦る気持ちが募る一方で、何も解決策は浮かんでこなかった。
九条家の屋敷で、使用人としての仕事をただこなしている毎日。今だって、買い物を頼まれ、その帰り道をトボトボと歩いている。オレンジ色の夕日が、人がまばらになった商店街をぼんやりと照らしている。
由香里は眩しさに目を細めながら、先行きの不安に深いため息を吐いた。
――その時。一匹の黒猫が目の前を横切った。由香里は危うくぶつかりそうになって、思わずその場に立ち止まる。
「あ、焦ったぁ」
胸を撫で下ろしながら、黒猫が去った右側の路地に、ゆっくりと目を向けた。そこには先ほどの黒猫がいて、振り返るように由香里のことを見つめている。
その姿に由香里は、数年前出会った足に怪我を負った子猫のことを思い出した。
助けた後、いつの間にか姿を消した小さな黒猫。元々飼い主がいたのか、手入れのされた艶のある毛並みに、引き込まれそうな金色の瞳を持つ子猫だった。
その子が成長したら、ちょうど今見つめ合っている黒猫のように、育っていただろうなと由香里は思う。
(懐かしいな。あの子元気にしてるかな……?)
思い出に浸り、しばらく黒猫の金色の瞳と目を合わせる。
すると、黒猫は突然興味を失くしたように、そっぽを向いて路地の向こう側に歩き出した。かと思えば、もう一度由香里の方を振り返って見つめて来た。何度かその行為を繰り返す黒猫に、由香里はまるで手招きをされているように感じた。
何の根拠もないが、由香里はついて行こうという気になった。黒猫を見失わないように、早歩きで追って行く。
何段あるのかわからない程、長い階段を上がったり、体スレスレの細い道のようなところを通ったり、急な坂道を登ったりした。
段々疲れてきて途中、何度も後を追うのをやめようと思った。だが、由香里が立ち止まる度に黒猫はこっちに顔を向けて、再び歩き出すまでジッと待ち続ける。少し乱れた呼吸を整えて、由香里はまた黒猫の後ろについて行った。
そして、ようやく黒猫が立ち止まった。由香里は両ひざに手をつき一つ息を吐いて、西日が差す方に顔を上げていく。あまりの眩しさに片目をつぶったが、目の前に広がる懐かしい景色にゆっくりと両目を見開いた。
そこは、由香里が幼い頃母がよく連れて来てくれた場所だった。
傍には一本の木があって、周りに生えた草むらは柔らかかった。更に奥では、心地良い水の音を響かせて川が流れている。
由香里は、この場所に来ると不思議と心が落ち着くのを思い出す。また、怪我をした子猫を助けたのもこの場所だった。もう、母と一緒に来ることは叶わないが、久しぶりに訪れて、切羽詰まっていた心が落ち着いていく。
ふいに、足元に黒猫が体をすり寄せて来た。その瞬間、誰かに包み込んでもらえる優しさも思い出して、頬を暖かい雫がポロポロと濡らしていく。
その場にしゃがみ込んだ由香里は、黒猫に慰められながら嗚咽を漏らして泣いた。
もう、優しく背中を撫でてくれる母はいないのに。
しばらくして涙も出なくなった頃、由香里の頭上に一つの黒い影が落ちた。ハッとして顔を上げようとしたが、目の前に一枚のハンカチが差し出される。
由香里は刺繡のイニシャルを見て、息をするのを忘れた。
(了)