描写技術
テーマ「逸話を元に小説を作る」
『少女ナズナと黒夜の羅生門』著:樹ありす
煌びやかなイメージを持たれやすい東京の陰の部分。山梨県との県境にひっそりと存在する無法地帯の歓楽街が、ナズナの生きる小さな小さな世界だった。
一概に無法地帯と言っても、多くの人が想像するであろう荒れ果てたスラム街ではない。ナズナ自身が目で見て確認したわけではないが、この街は新宿や渋谷などの大都市と同等に栄えているらしい。歓楽街の本領を発揮する夜は、それら以上に派手やかな場所に姿を変えるのだとか。
まるで迷路のように居酒屋や賭博場、男性や女性を取り扱う店が寄せ集まったこの街では、盗難や暴力などのもめ事はしょっちゅうだ。
いつ、何が起きるかわからない。地獄のような場所だが、無法地帯出身の者たちはここ以外で生きる術を持っていない。彼らはその日暮らしで手いっぱいで、外の世界で生活できるだけのお金を稼げないからだ。
故にナズナのように外での暮らしに焦がれる者たちは、外からやってきた客人——外客に縋るしかない。彼らと接点を作り、好意を抱かせ、自分を買い取ってもらう。
ナズナの働いている店が良い例だろう。歳をとって容姿が衰えていけば、それだけ養ってもらえる可能性が低くなる。若くいられる今の時期が、ナズナの人生を賭けた勝負どころなのだ。
以前ナズナが相手をした大学の教授をしているという男性は、この歓楽街を「遊郭のようだ」と言っていた。それは、歴史上に出てくる女性を取り扱う店の名称らしい。
鼻高々に自分の知識をひけらかしていた彼は、きっと考えたこともないのだろう。歴史を知るためにも、お金が必要なことを。膨大な知識は、それだけの大金が積み重なって初めて得られるものだということを。
早番——世間では夕方とされる時間帯の勤務——を終えたナズナは店を後にして、バラック小屋が建ち並ぶ住宅街を目指す。歓楽街を出るまでは店の名前や「ナズナ」という商品としての看板を背負っているため、歩く姿にも気を使わなければいけない。ヒールの音を鳴らして優雅に歩く裏では、常に周りの目を気にして頭の天辺から爪先まで気を張っている。
そうでなくても、この街では何が起こるかわからない。ここで暮らしている以上、一瞬たりとも気を抜くことはできないのだ。
すれ違う身なりのいい外客たちに微笑みながら、歓楽街と住宅街の境に立つアーチに辿り着く。外客の目印になるように、歓楽街にはあちらこちらに電光掲示板のついたアーチが存在する。このアーチもその内の一つだが、歓楽街の大通りから離れたこの辺りまで外客が来ることは滅多にない。そのため、アーチの電光掲示板は八年前に故障したままずっと放置されていた。
真っ黒な電光掲示板のアーチの先には、住宅街の光一つない暗闇が広がっている。まぁ、目印といえば目印だろう。
ほのかに月光に照らされた住宅街は、微かに複数の人の気配がする。けれど声や物音は全く聞こえない。
夜間は静かにしなければならない。住宅街で暮らす者たちの暗黙のルールの一つだ。さもなければ、離れにあるバラック小屋の暴君が目を覚ましてしまうから。あの筋骨隆々とした暴君を止められる猛者は、少なくともこの無法地帯には存在しない。
そんな住宅街のルールと静寂を破る悲鳴が聞こえたのは、ナズナが脱いだヒールを片手に持ち、アーチをくぐってすぐのことだった。
「アンタさえいなければっ!」
突然聞こえてきた甲高い女性の声に、ビクリと肩を震わせる。
ルールを知らない流れ者だろうか。勘弁してよ。暴君が起きたら、ここにいる皆が迷惑を被ることになるんだから。
三割の呆れと七割の苛立ちを抱きながら、ナズナは声の聞こえた小屋と小屋の隙間を覗き込む。
「もう少しで外に出られるところだったのに……彼を返してよ、この泥棒猫!」
屋根の間から射し込んだ一筋の月光が、誰かの上に馬乗りになって叫ぶ女性の姿を照らす。振り乱した髪は青白い月明かりで白髪のように見えたが、よく見るとそれは鮮やかな金色をしていた。この無法地帯でそんな派手な髪を持つ人物を、ナズナは一人しか知らない。
ミナだ。ナズナの店で、最も指名が多い看板美女。「外の企業で社長を務めている男性から告白された」と近頃浮足立っていた彼女だった。
普段は綺麗に整えられている髪や服を乱し、ミナは充血した赤い目で自分が組み伏せている人物を憎々しげに睨みつける。
その人物の顔はちょうど月光の射さない位置にあり、それが誰かまではわからない。けれど長い髪や見るからに華奢な身体から、相手が小柄な女性であることがわかる。
「そんなの、知らないわよ! あの人は自分からわたしの元に来たの! 貴方なんか、もうとっくに愛想つかされていたんじゃないの?」
「嘘よ! アンタが彼を誘惑して自分の店に連れ込んだの、知ってるんだから!」
ミナはそう怒鳴ると、自分の下にいる女性の茶髪を鷲掴む。女性は呻き声を上げて暴れるが、ミナは決して彼女の髪を離そうとはしなかった。
二人の間を飛び交う言葉から、この状況に陥った経緯を薄々と察する。
ミナは彼女に、もう少しで自分を外に連れ出してくれるはずだった外客を盗られたのだ。組み伏せられた相手はそれを否定しているが、それが本当か嘘かなど関係ない。
一つ確かなのは、ミナは今にも手が届きそうだった希望を失ったということ。その憎悪が今のミナを突き動かし、彼女の美しい顔を人ではない化物のような形相に歪めている。
「痛いっ! やめてっ!」
ふいにミナの下にいた彼女が体を大きくよじり、暗闇に隠されていたその素顔が露わになる。白い肌によく映える赤黒く痛々しい痣が晒され、ナズナは目を見張った。
「やっと、ようやくここまで来れたのに! アンタのせいで全部、全部台無しだわ!」
泣き喚くミナの心情を思って俯き、初めて自分の足が震えていることに気がついた。ナズナはタイトスカートのポケットから、カバーのないむき出しのスマホを取り出す。
ナズナを酷く気に入っている外客から「連絡手段がないと不便だから」と渡されたものだ。正直売ってしまおうかと思っていたが、まさかこんなところで役に立つとは。
ナズナは興奮で震える指で画面をタップし、カメラモードに切り替える。
ここは東京の無法地帯。その名の通り、法律や行政の及ばない、犯罪や暴力を咎める者が誰もいない場所だ。ここで起きるどんな暴力沙汰も罪に問われることはない。
特定の店で働く商品が関与する場合を除いて。
ミナが馬乗りになっている相手は、ナズナたちと同じ系統の店で働く女性だ。それもこの界隈では名高い、どんな相手をも自分の虜にするという繁華街一の美少女。
そんな彼女の、商品として最も重視される顔に傷をつけた。こんなの、御法度どころの騒ぎではない。これを公にすれば、ミナはあの店に、最悪の場合この繁華街にいられなくなる。繁華街一の彼女も、痣が治るまで店で働くことはできないだろう。
そうなれば、わたしにだって——。
ミナに劣らないほど自分の顔が歪んでいることに気がつかないまま、ナズナはスマホを二人に向けて画面をタップした。
その瞬間、パシャリという軽快な音と同時に眩しい光が辺りを包み込んだ。
マズい。そう思うや否や、スマホの先にいる二人がこちらを振り向く。
「誰っ⁉」
「お願い、助けて! 殺される!」
ナズナは素早くスマホをポケットに戻し、その場から逃げ出した。
(了)