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 晩飯を食べ終わった後、もう外は暗いから帰る瞳を送っていけと母に言われしぶしぶパーカーを羽織り瞳と外に出た。
 瞳の家は遠くもなければそこまで近くもない場所にあるため少し歩く。 
 特に話すこともなく無言のままでいると、瞳が思い出したように口を開いた。
「あの子はどう? 上手くなった?」
 瞳の言うあの子が朽木だとすぐに理解し、俺は言葉を詰まらせた。なんせ今日、教えるのを辞めたからなんて言っていいものか。
 すぐに答えない俺を不思議に思ったのか瞳は顔を覗き込むように少し前に出てきた。
「何かあった?」
 そこで俺は足を止め、今思いついたことを瞳に言った。
「朽木にピアノ、教えてやってくれないか?」
 俺の言葉がそんなに意外だったのか瞳は「えっ」と声を漏らす。 
「あいつの才能を潰してしまうかもしれないんだ、頼む!」
「ちょっと、ちょっと待ってよ! 意味分かんないから!」
 理由の説明を求めてくる瞳に、俺は今日あった出来事を話すと、呆れたように肩を竦めため息を吐いた。 
「巽が悪いじゃないの、それは」
「いや、時間がないのにくちごたえしてきたから……」
 言いながら出来事を思い返してみると、側から見れば瞳の言う通り俺が悪い気がしてきた。 
 でも、もう俺が教えることはできない。 
「明日と明後日だけでも教えてやってくれよ!」
「無理よ、予選で弾く曲の練習しておきたいもの」
 そうだよな。瞳もコンクールに出るし、ダメもとだったがやっぱりダメか。
 俺が頭をかきながらため息を吐いていると、そういえば、と瞳は口に指を当てながら聞いてくる。
「あの子ってすごい下手だったわよね、どうやって才能なんてわかったの?」
「会った日に連弾したって言ったの、覚えてるか?」
 頷く瞳に俺は続ける。
「その時……最高の演奏ができたんだ、だから朽木に才能があると思ったなんて、単純だろ?」
 俺は自分を馬鹿にするように笑うが、瞳は真面目な表情のまま小さく顔を横に振った。
「羨ましいよ、羨ましくて妬ましくて悔しくて、負けず嫌いだからかなぁ」
 一度俯いてから顔を上げ、明らかな作り笑いを見せてくる。
「さっきの話だけど、あの子は今のライバルだから! 教えないよ!」
 そう言って手を後ろで組み前を歩いていく瞳をすぐに追いかけ顔を覗くが、いつもの明るさは無くなっている。
 なんて声をかければいいか分からないまま歩いていると、瞳が足を止めた。それに気づいた俺も止まり横を見ると、そこは瞳の家で、いつの間にか着いていたようだ。
 瞳はその家にかけていきドアの前まで行くと、振り返ってにっこりと笑った。
「あの子と仲直りしてよね」
「あー、うん」
 はっきりしない返事をしたが、瞳は何も文句は言わず、「おやすみなさい」とだけ言い、家の中に入っていった。
 俺はそれを見届けてから帰りの道を歩きだし、ふと、左手を見て問いかける。
「さっき、瞳の演奏聴いて弾きたがってただろ?」
 答えるはずもない左手に俺は何を言ってるのか自分でもおかしいと思うけど、単に心の中だけで呟くことができなかったのだ。
「……帰ったら、弾くか?」
 簡単な曲でもいいから、左手に弾かせやりたい。なんて、自分が弾きたいだけの理由なんだけど。
 だが、家に帰りいざピアノの前に座ると、どうも弾く気にはならなかった。鍵盤蓋を開けてそこに手を置いても変わらない。瞳の演奏を聴いて、俺にはもう弾く意味がないと感じてしまったから。
 今までだってそうだったじゃないか。朽木と会うまで弾かなかったのはこの手で弾く意味がなくなったからなのに今さら何を求めているんだ俺は。
「いやー、それにしても瞳ちゃん、成長したねー」
 背後から母の声が聞こえたが、俺は振り返ることなくピアノと向き合ったままでいた。
「母さんにも分かったのか」
「それはね、分かるわよ」
 やっぱりそうだよな、昔の瞳の演奏なんて置き去りにしたように上手くなっていたし、誰だって分かるか。
 さっきはあまり考えないようにしてたけど、悔しいものだ。
 別に、瞳のように負けず嫌いというわけではなく、俺が今でも弾けてれば瞳以上の演奏ができていたのにって、それが負けず嫌いなんだろうけど、そう思ってしまう。 
「小さい頃に比べると一目瞭然ね」
 母のその言葉に俺は振り返り眉をひそめた。
「え、弾き方はあまり変わってなかったと思うけど」
 いつの間にか取り出していた缶ビールを開けながら、
「ピアノじゃないよ、胸よ、おっぱい」
 缶を持ちながら手で山を作り不気味に笑いはじめた。
「ひひっ、ひっ、どうだった?」
 母は俺との会話を肴にして飲むつもりなのだろう、経験から分かる。それと何がどうなのだろうか。
 ていうか、今さらだがピアノの話じゃなかったのかよ。
「あ、そうか」
 俺が答えずにいると、母は何かを思い出したかのような声を出した。
「巽には昨日の小さな女の子がいたねー」
 小さな女の子とは朽木の事を言っているのだろうか。そういえば名乗ってなかったっけ。朽木は母を見て驚いてたな。
 思い出すほどに、昨日のことが随分と懐かしく感じる。
 朽木の練習のためにピアノ動かして、母と竹内さんに手伝ってもらって、俺も手伝って。昔だったら本当に考えられない事で、人が弾くためにそれを手伝うなんて俺からしたら嫌味のようなものだ。
 それなのに嬉しくて楽しかったのは、どうしてだ?
「その子とはどうなの?」
「別に……何もないけど」
「はい嘘、その間何? 顔に出てるし」
 次々と言葉が出てくる母はビールを飲み、そしてまた、「うそつきー」と言ってからもう一度ビールを口につける。
「分かりやすいね、喧嘩でもしたの?」
 何もかもお見通し、らしい。瞳も言っていたが、やっぱり俺って分かりやすいのか。
「何があったか話してごらん? ん?」
 母はそう言いながら冷蔵庫から二本ほど缶ビールを取り出し、嬉しそうな顔で戻ってきた。
 話せばいじられるのは間違いないけど、このまま黙っているわけもなしに、ソファに座る母と向き合う形で俺はカーペットの上に座った。流石に酒を飲んでいる母の隣には座りたくない。
「ピアノの事でさ、ムキになっちゃって」
「へえ、あの子がピアノを?」
 昨日は事情も言わず手伝ってもらったんだったな。
「俺が教えてたんだよ、だけど、今日辞めてきた」
 母は「あらま」と声だけで大した驚きは見せず、ビールをグイグイ飲み続ける。
 母が酔う前にこの話を終えたいと思った俺は大雑把に経緯を話した。
「相変わらず、短気じゃね」
 話し終えたところで、母は目を細めながらそう言った。
「時間がないにしてもそれはいかんじゃろ」
「今、分かってる」
「ふへへ、成長しとる」
 母は飲み終わったビールをテーブルに置き、ソファで横になった。
「パパが帰ってくるまで寝る」
 それだけ言い目を瞑った母を見て、俺は部屋に戻った。
 分かってる。短気ですぐに苛立った俺が悪いんだ。明日、ちゃんと仲直りをしよう。