後日談。
全員の予選が終わった後、俺は控え室の前で一人壁に寄りかかりながら朽木を待っていた。
特に約束をしたわけではないけど、会って感想が言いたいのだ。先ほどの演奏について、俺は感動したと、言ってやりたい。
しかし、扉が開くたびに確認するがなかなか朽木本人が出てくる事はなく、かれこれ十分ほどが経ったところで瞳が出てきた。 そして、俺を見るなり眉をひそめ、ため息を吐く。
「ここ、一応は控え室兼女子更衣室なの分かってる?」
「分かってるよ、だからここで待ってるんだ」
横の看板にも書いてあるし、さすがに男子の控え室と間違えたりはしない。
「それで、朽木は? なんで出てこないんだ、あいつ」
また一人、演奏者の女子が控え室から出てきたのを見ながら瞳に聞くと、口に手を当てながら小さく笑った。
「あの子、当分は出てこないわよ」
「え、もしかして、泣いてるのか?」
そう問うと、瞳はまた笑う。
俺は訳が分からず首を傾げていると、控え室を覗き込みながら瞳が手招きしてきた。
「もうあの子一人みたいだし、入ろ」
先に控え室に入っていく瞳の後ろから俺も中に入ると、拗ねたような顔で椅子に座っているドレス姿の朽木がいた。だが、俺が入ってきたことに気づき驚いた様子で立ち上がる。
近づこうとするも、
「へ、変態……」
と言いながら後ろに下がっていった。
「な、なんだよ、何もしないぞ」
俺は両手を上げて安全の意図を示すも、朽木の警戒している態度は変わらなかった。
「というか、なんでまだドレス着てるんだよ」
「脱ぎ方が分からないんです。瞳先輩に手伝ってもらおうと思ったんですが、全く手伝ってくれなくて……」
「しーらない。それに、そのドレス気に入ったんでしょ?」
「そんなわけないです! こんな恥ずかしい服二度着ません」
大きな声をはりあげる朽木の横で瞳はわざと音を立て鼻で笑った。
「先輩が私に用意してくれたドレス……。って顔を赤くして大事そうに抱え持ってたの、誰だっけ?」
瞳がそう言うと、朽木の顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていった。それを見て俺もなんだか恥ずかしくなる。
でも、喜んでくれていたのなら、ドレスをあげたかいがあったな。
「はぁ、嫌だ嫌だ」
瞳はそう言いながら俯いている朽木の後ろに立った。
「手伝うから着がえよ」
「お、お願いします」
「うん。ほら、巽は出て行きなさいよ」
別に着替えを見る気は……なかったけど、瞳の目も怖いし、さっさと出て行ったほうがよさそうだ。
俺は廊下に出て、また壁に寄りかかりながら二人を待つことにした。
しばらく目を瞑っていたのだが、微かにピアノの音が聴こえ、聴こえてきた左のほうを見る。
「会場から?」
誰かまだ残っているのか。
俺は一度控え室のドアを見てから、誰が弾いているのか少し見てすぐ戻ればいいかと思い、会場に向かった。
会場に近づくにつれピアノの音も大きくなり、弾いている曲が滝だということが分かる。
それにしても、綺麗な音だ。予選ではこれほど上手く弾いている人はいなかったと思うけど、一体誰が……。
会場の裏に着き、俺はカーテンから演奏者を覗き込んだ。
顔は見れず、弾いている後ろ姿だけが見れた。黒髪を左肩にかけ、手だけではなく体全体を大きく使ってピアノを弾いている。
しばらくの間演奏に聴き入っていたが、徐々にある人物を思い出していた。
勢いがあるのに乱れないリズム。見本にはできないあの弾き方。……もしかして、神崎先生なのか?
いや、間違いない。何度も間近であの弾き方を見てきたんだ。
演奏者の正体が分かり、胸の鼓動が段々と速くなる。
声をかけるべきなのだろうか。あーでもでも! もう顔も見せるなって言われてるし!
なんて、俺が考えている間に神崎先生の左手がゆっくりとあがった。演奏が終わったのだ。
神崎先生が椅子から立ち上がると同時にあっても気まずいだけだと思い逃げるという考えが生まれたが、俺の足はすぐに動かず、神崎先生と目があってしまった。
「君!」
目があってから背を向けたが呼び止められ、そのまま逃げればいいものを俺は律儀に止まってしまった。
「だめじゃないか、ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ」
どうやら、神崎先生はまだ俺だと気づいていないらしい。
一応関係者なのだが、それは言わず背を向けたまま、
「す、すみません」
と謝った。
「すぐに帰りますから」
そう言って立ち去ろうとした時、「ちょっと待ってくれないか」、という声の後、神崎先生の足音が聞こえた。近づかれ、真後ろに立たれたのが気配で分かる。
「君がドレスを着ていた子と一緒にいたところを見たのだが、もしかして、知り合いなのか?」
ドレスを着ていた子、朽木の事だろうか。
「えっと、知り合いですけど……」
「やはり、そうかそうか!」
神崎先生は嬉しそうな声でそう言い、俺の肩を掴んできた。
「もう一度彼女の演奏を聴きたいんだ」
「えっ?」
もう一度聴きたい、確かに聞いたその言葉に、俺は思わず声を漏らし先生の方に振り返った。
思ったより先生との距離が近く反射的に後ずさるも、神崎先生は俺の肩を引き寄せ、
「彼女と会わせてほしい」
と、ピアノを弾く時と同じように真剣な顔で言ってきた。
よく見ると先生の顔に少しシワが増えているのが、相変わらず美人だ……。って、顔近いし。
緊張している俺を他所に、先生は言葉を続ける。
「彼女の演奏に嫉妬してしまったよ、ものすごく力強くて、あの滝は誰もが真似て弾けるものではないようだ」
先ほどまで滝を弾いていたのはそういうことだったのか。朽木の演奏に嫉妬して。
「どうだろうか、会わせてはくれないだろうか」
先生の目は俺なんか見てなかった。俺と繋がる先の朽木を見ている。まるで宝石を見るかのような、そんな目で。
「……嫌ですよ」
俺がそう言うと、先生は「どうしてだ!」と会場に声を響かせた。
朽木に聞きもしてないのに勝手に答えてしまった。神崎先生のファンって言ってたし、たぶん聞いたら会うって言ってただろうな。
だから、俺が答えた。
「もし会ったら、ピアノを教える気ですよね」
「あ、いや、どうだろうか」
その目は昔の俺や瞳を見る目と同じ。自分で言うのはあれだが、才能のある奴を、先生は育てたいんだ。
神崎先生も、たぶん直感で朽木の才能に気づいたんだ。
「その、彼女さえよければと思ってはいるが」
「なら無理ですね」
俺は神崎先生に背を向けながらそう言い、続けて少し憎たらしく、それでいて自慢そうに、
「もう俺が教えてますからね」
振り向かずにそう言って、背後から聞こえてくる先生の声を無視して控え室に戻った。
朽木は既に着替えが終わっており、瞳と控え室の前で待っていた。
俺が戻ってきたことに気づいた朽木と瞳の様子はどう見ても怒っている。
「どこ行ってたのかしら?」
俺はさっきの出来事を話すことなく、二人から子供を叱るように説教されながら帰路に着いた。