「そうだ、あそこだ」
首をかしげる朽木に目的地は言わず歩き出す。
喫茶店から少し歩いたところで足を止めた。
着いた場所は、児童公民館だ。朽木には失礼だが、子供っぽい朽木を見たおかげで思い出せた。
ここなら無料でグランドピアノが弾ける。
中に入り辺りを見渡すが、子供の姿は一人もなかった。
「あれ、誰もいないんですね」
「もう閉館の時間か?」
壁にかけてある小さな丸時計は丁度午後六時を指していた。
「俺が来た時は七時くらいだった気がしたけど」
「まだ明かりもついてますし、大丈夫そうですよ」
確か二階で弾いてたはずだから、今でもあるよな。
俺たちは二階に上がり、廊下を進んだ。
「えっと、ピアノが置いてあるのは奥の部屋だったか」
その部屋は薄暗く、少し埃臭かった。
入り口近くにあったスイッチを入れ電気をつけると、何度か点滅してからしっかりと明るくなった。
「色んなものに埃がかぶっていますね」
「だな」
辺りを見渡すと、もう使われていないだろう遊具などが置いてあり、朽木の言う通り、着ぐるみやトランポリンなど全てに埃がかぶっていた。
床も埃だらけで靴の跡がついてしまうほどだ。
「これですか」
部屋の隅に、ピンク色の布が被されていたが三本の黒い足が見える。朽木が指差したものは確かにグランドピアノだった。
しかし様子から見ると、もう何年と使われてないことが分かる。
「ここって、もう使われていない物置部屋なんでしょうね」
俺は布を取り改めてピアノを見た。
長く放置されていたのにもかかわらず、状態はすごく綺麗だった。
全然弾ける状態だ。これを練習用にできればとりあえず予選には間に合うだろう。
「弾くぞ、椅子どかして横に立て」
「勝手にいいんでしょうか」
「こんな奥で埃かぶるなら、俺たちが弾いた方がいいだろ」
「あの、私は怒られる心配をしているんですけど」
朽木の言葉を無視して鍵盤蓋を開ける。蓋の裏には鍵盤が反射して写っていた。それほど綺麗な状態ということだ。
「連弾ですか?」
「ああ、弾いて怒られた時連帯責任にできるだろ?」
「怒られるの前提なんですね」
赤信号もみんなと渡れば何とやらだ。もしもの時は俺だけでも逃げよう。
俺は一度、高いドを鳴らす。
と、すぐ音に違和感を感じた。
中は固まっていないけど、やはり長年放置されていたため、音も昔のままとはいかない。
これから使えるようになっても調律が必要になる。
壊れていなければ大丈夫だ。
「よし、とりあえず弾こうぜ」
今練習中の滝は却下だとして、さて何を弾くか。
「子犬のワルツは前にやったし、他に何か弾けるか?」
「滝はダメなんですか?」
「このピアノはな」
そう言った時、大事なことを思い出した。
「そうだ、お前の家キーボードがあるって言ってたな」
「ありますよ」
「それで練習とかしたらダメだぞ」
「どうしてですか?」
「音が混ざるだろ、譜面の確認や音を消して練習するならいいけど、今はピアノで練習してるんだからな」
こんなことを言ってなかったなんて。今の朽木の顔を見る限り家でも練習してたな、危ない危ない。
「えっと、弾くだけならいくつか、あ、でも楽譜がないですね」
楽譜がないと弾けないのか、まあ二年程度の練習では仕方ない。
「クラシックじゃなくてもいいぞ?」
「そうなると童謡ですかね」
「童謡か、と、朽木の言葉に動揺した」
「言いたいだけですよね」
朽木は呆れたように言うが少し笑ってくれている。
しかし童謡か。
「連弾じゃなくてもいいな」
「あ、なら先輩弾いてください」
朽木は一歩下がり俺に真ん中のスペースを差し出した。
「いや、俺はいいよ」
言っても、朽木は動かなかった。
仕方なくそこに立ったが鍵盤に手を置くと猫背のになるためなにぶん不恰好だ。
椅子は埃だらけでとても座る気にはなれない。
「何が聴きたいんだよ」
わざとらしく不機嫌そうに言ったが、朽木は気にする様子もなく、
「黒鍵でお願いします」
と、まあ弾くには面倒くさい曲をリクエストしてきた。いや、どの曲弾くにも右手だけでカバーすることになるから面倒なのだが。
それにこの状況ではテンションもあがらない。
幸い、朽木さえ口を開かなければ無音の空間だ。無理に雰囲気を作ろうと思えばできなくないが、それは結局、俺の妄想になる。
この際妄想で……妄想……。
場所はオーストリアのコンサートホール。
満席の会場の中で、俺はピアノの前に立つ。
全員が俺の演奏を待っている。今すぐに、と、訴えかけるような静寂さだ。
今なら弾ける、最高の演奏を。
俺は、この場で演奏することを待ち焦がれていたんだ。