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 手持ち無沙汰な左手をポケットに突っ込み、俺は弾き始めた。
 普通に弾いていくと、右手だけではバランスの悪い演奏になるのはわかっている。そのため、作れない左手でのメロディーは脳内で流しカバーしていく。
 それによって右手をアシストできる、弾きやすい。
「せ、先輩」
 よし、この感じを覚えて……。
「先輩ってば!」
「おおお??」
 朽木の大きな声に驚き自分のとは思えない変な声が出た。
 妄想から現実に引き戻され、集中力も切れた今、演奏は続けられそうにない。
「どうしたんだよ、せっかく集中できてたのに止めやがって」
 俺の声に反応せず、朽木は目を瞑って耳を澄ましていた。
「おい?」
「足音が聞こえてくるんです」
「本当か?」
 聞いてから俺も耳を澄ます。
 確かに、だんだんと近づいてきてる気がする。しかし、朽木もよく聞こえたな。さっきまで俺の演奏もあったのに、もしかして聴いてなかったとか?  
「お前ぶっとばすぞ」
「ええ?? 突然なんですか??」
 って、まずいな。足音はもう二階にまで来ている。 
 廊下は一本道だし、逃げ場がない。
「あの、さっきピアノ弾いてたのって先輩だけ、ですよね」
「本当にぶっとばすぞ」
「冗談です……」
 もう怒られるの覚悟で……逃げてみるとか。
 なんて往生際の悪い事を考えていると、朽木が俺を呼び、頭と胴体が離れているクマの着ぐるみを指差していた。
「着ましょう、それしかありません」 
 その横にはウサギの着ぐるみもあった。
 いや、もうこれしかない。
「私ウサギがいいです……、これどうやって着るんでしょう?」
「上から入るんだよ、急げって」
 朽木が入ったのを確認してから俺もクマの中に入ると、すぐに頭を被り息を潜めた。
「電気が点いてる、誰かいるの?」
 女性の声がする。たぶん、ここで働いている人だろう。
 クマの目から覗いてみると、穴が細くて顔はよく見えないが、白いズボンは見える。
 そのままどこか行ってくれないかな。
 そう祈りながらじっとしていたが、俺の視界からは消えないままだ。
「頭と胴体は切り離したまんまだったのに、いつからくっついたのかな?」
「あ、けほっ」
 頭を取られ、舞った埃にむせてしまう。
 クマに入ったまま見上げると、腰に手を当て呆れた顔でいる女性が立っていた。
 リスやうさぎがアップリケされているエプロンを着けているところを見ると、やはりここの職員なのだろう。
「何してるの?」
 当然の質問に、
「えっと、ですね」
 俺がよく使う、答えずに誤魔化すを実行するが、長くは持ちそうにない。
 そういえば朽木は? ばれてないのか?
 横目で朽木が入ったウサギの方を見て、なるほど、とすぐに何故ばれていないか理解できた。
 朽木は胴体に入っただけで丸まっているため、この女性には分からなかったんだ。
 そういうところだけは頭いいんだな。だけど、
「あー! ウサギにも誰か入ってる!」
 俺はわざとらしくそう言いながらウサギを指差す。 
「え??」
「え?」
 朽木の驚いた声の後に、女性はウサギを覗き込んだ。
「本当ね、今度は女の子が」   
「ど、どうも」
 苦笑しながら朽木はのそのそと出てきた。
 そのままスカートについた埃を叩きながら俺を睨んでくるが、女性が「あら、高校生だったの?」と言ったため、敵意を向ける相手が俺ではなくなった。
「失礼ですけど、私は十五歳ですから」
「うん、今のは私が悪かったから謝るけど、着ぐるみに入ってた説明はしてね」
「説明と言われても、しようがないというか」
「そう? なら高校に通報するね」
 地元の高校だけあって制服を見られただけでどこに通ってるか分かられてしまう。
 通報されるのは勘弁だし、正直に話したほうがいいか。
「実は、あのピアノを弾いてたんです」
「聴こえてたよ、もう数年はピアノ出してないからある事を知ってる人も少ないのに、たまたま見つけたの?」
「昔に弾かせてもらった事があったんです」
「それって、……君はもしかして瀬川君かな?」
「え、どうして」
 何故自分の名前を知っているか聞くと、女性は口に手を当て微笑んだ後に、ピアノに手を置いた。
「だってねえ、このピアノ弾いてたの、瀬川君くらいだったのも」
 ということは、この人は俺の演奏を聴いた事があるんだろう。だが、俺はこの女性を覚えていない。
「瀬川君、来なくなったでしょ? もう弾く人もいなくなっちゃって、置いてても邪魔になっちゃうからって今はここにね」
「先輩のせいだったんですね」 
 いや、俺のせいだけではないと思うけどな。
 確かに、他に弾く奴もいなかったおかげで当時はいくらでも弾けてたし、俺以外弾こうとする奴もいなかった。
 けど、職員が弾くなり何かしらしたらよかったんじゃないのか? こんなにいいピアノなのにもったいないだろ。
 と、思ったが口にはしなかった。
 今はそれよりも、
「このピアノ、もう一度出しませんか?」
 練習できる環境を作るためにはもうここしかない。
「弾きたいって事?」
「そうです!」
 俺が返事をする前に朽木が返す。
 女性は特に悩む様子もなく、
「なら出そうか」
 と、あっさりと了承してくれた。
 最初は怒られる覚悟だったのに、いい方に事が運んだのは予想外だったため、
「いいんですか?」
 さすがに疑問に思い聞いてみると、
「もったいないでしょ? このピアノだってここの自腹じゃないしさ、弾きたい人がいるなら出すよ」
「ありがとうございます!」
 喜んでいる朽木をよそに、俺はもう一つの質問を女性にした。
「あの、調律はしてもらえますか?」
 その事にも迷いなく頷いてくれた。
「うん、それくらいなら上の人が出してくれると思うから、大丈夫」
 よかった、もし無理って言われてたら自腹で調律師を呼ぶ事になっていた。
「いつから弾きたいの?」
 調律の事なども考えて明日から、は厳しいはず。
 音楽室が使えない週末に練習できれば十分だ。
「金曜日からで大丈夫ですか?」
「分かった、頼んでおくよ」
「ありがとうございます」
「いいって、もう一度聴きたいしね」
 そう言って女性は微笑んで手を差し伸べてきた。
 俺は一瞬、何か分からなかったがすぐに気づき、慌てて服で手を拭いてから、女性の手を握った。
「よろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
「あなたも」
「は、はい」
 女性は体を朽木に向けて、今の俺たちのように握手を交わした。
「それじゃあ、とりあえず、事務室に来てくれる?」
「え?」
 朽木の手を握ったまま、部屋を出て行った。
 俺はそそくさと後をついて行ったが、
「着ぐるみを着てた事と無断でピアノを弾いた事は許してないからね」
 俺自身忘れてたけど、この流れでまじか。
 ピアノの件で逃げるわけにもいかず、俺と朽木は女性の過去話も含めた説教を二十分ほど受けさせられた。
 とはいえ、弾ける環境を確保できたのは大きい。
 これで練習できない日はなくなったし、なによりピアノがグランドピアノなのが朽木にはもったいないくらいだ。 
 説教が終わった後、女性は「ちょっと」と俺たちを引き止めた。
「明日も来なさいね」
「え、何かあるんですか?」
 聞いた朽木に女性はデコピンをした。
「貸してもらうのはあなたたちでしょ? ピアノ運ぶのも、綺麗にするのも、二人でやりなさいよね」
 それはそうだ、むしろ喜んでやらせてもらいたい。
「事務室で竹内先生いますか? って聞いてくれれば出てくるから、ちゃんと来るのよ?」
「もちろんです」
「それだけ! じゃあ気をつけて帰りなさいね」
 竹内さんに見送られながら自動公民館を出て、俺たちは帰路についた。
 朽木はピアノを借りれることで気分が高揚しているようで、たまにスキップを混ぜながら歩いている。
「明日から楽しみですね」
「まあな、弾くのは朽木だけど」
「いいじゃないですか、しっかりと指導してくださいね」
「分かってるよ」
 そんな雑談をしている間にいつも別れる三叉路に着いていた。
「じゃあ、先輩、ここで」
「ちょっと待て」
 朽木の髪に埃がついているのに気づき、俺は手を伸ばしそれを取ろうとした時、朽木の体が竦み、そのまま目を瞑った。
 埃は髪に引っかかっていたが、つまむとすぐに取れた。
「もういいぞ、取れたから」
 そう言うと、朽木はゆっくりと目を開けた。
 だが、朽木は黙ったままでいる。
「どうした?」
 聞くと、思わぬ事を朽木は言った。
「キス、されるかと思いました」
「何言ってんのお前」
 呆れながらそう言うと、
「ちょっと……緊張しちゃいました」
 と言った朽木の顔が、少し色っぽく見え、思わずドキリとしてしまう。 
 ちょうど街灯が当たるためはっきりと朽木の顔が見えて、頬を少し染めているが分かる。
 さっきのキスという言葉を思い出し、ピンク色の小さな唇に視線がいった。
 キスしたい。
 その感情が出てしまい、俺はその発想を消すために首を横に振る。
 相手は後輩、しかも朽木だぞ。背もなけりゃ胸もない、童顔で、ありえないだろ。
 俺は神崎先生が好きなんだし、そうだよ、朽木とキスなんて……。
「じゃ、じゃーな、朽木」
「は、はい、バイバイです、先輩」
 馬鹿だ、俺。
 朽木とのキスを、想像なんてしてんじゃねーよ。 
 ……これ、家でどうにかするしかないな。